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弥勒菩薩のスピリチュアルとは?

数ある菩薩の中で最も有名なのが弥勒菩薩です。弥勒菩薩は未来仏と呼ばれており、56億7千万年後に地球上に現れて人類を救うとされています。気が遠くなるほどの未来の話ですが、弥勒菩薩は最後の救世主になることが約束された存在です。この記事では、弥勒菩薩の特徴やスピリチュアルとの関係について紹介していきます。

弥勒菩薩とは

数ある菩薩の中でも、最も有名な弥勒菩薩には次のような特徴があります。

弥勒菩薩の成り立ち

弥勒菩薩は次のような由来によって成り立っています。

弥勒菩薩の発祥

弥勒菩薩は現在のパキスタンにあたるインドの北西部のガンダーラで発祥し、1世紀から3世紀頃に弥勒菩薩像が作られるようになりました。ガンダーラで作られた弥勒菩薩像は彫りが深い顔つきをしていて、男性的です。

中にはヒゲをたくわえた弥勒菩薩像もあり、身体つきもがっしりしていて、男性的であることが強調されたデザインが大半でした。しかし、朝鮮半島の弥勒菩薩像を見ると、ガンダーラで作られた弥勒菩薩像とはかなり違っていて、男性らしさが弱く中性的なイメージになっています。

弥勒菩薩の成立時期

インドのガンダーラを発祥とする弥勒菩薩は紀元前4世紀から西暦1世紀頃に仏教について書かれた「阿含経」の中で説かれているため、弥勒菩薩の成立もその頃だったとされています。紀元前4世紀から西暦1世紀頃と、長いスパンで語られているのは、はっきりとした時期を特定できないからでしょう。

「阿含経」に書かれている時期は釈迦と共通しており、釈迦と弥勒菩薩の関係性を裏付ける証拠としても価値があります。また、初めて仏像を作ったとされるガンダーラ仏でも、仏教の開祖と言われる釈迦に次ぐほどの数の弥勒菩薩像が作られていた状況からも、紀元前1世紀頃には弥勒菩薩が信仰されていたと考えられます。

弥勒菩薩と中国の関係

弥勒菩薩に関する経典は中国の後漢から三国時代に西域にもたらされました。そして、4~5世紀の西秦時代には甘粛省炳霊寺の石窟に「弥勒上生経」と「弥勒下生経」に基づく弥勒菩薩の壁画や彫像が作られています。

それらの弥勒菩薩の形状はガンダーラ仏と同じように両脚を交差するものと、飛鳥時代に伝来した半跏思惟弥勒菩薩像が混在しています。日本だけでなく、広い範囲で弥勒菩薩像が存在していたようです。

弥勒菩薩と日本の関係

インドのガンダーラで発祥した弥勒菩薩に対する信仰は中国を経て4世紀頃には朝鮮半島まで広がります。この時代の朝鮮半島では「弥勒上生経」に基づく半跏思惟の弥勒菩薩像が多数作られるようになりました。

日本に石仏の弥勒菩薩像が初めて伝来したのは584年のことです。その後の603年にも、金銅仏の弥勒菩薩像が伝来しています。いずれの弥勒菩薩像も日本との交易が盛んだった朝鮮半島南西部の百済から送られたもので、日本に弥勒菩薩像が送った事実が「朝鮮仏教通史」に記録されています。

金銅仏の弥勒菩薩像はその後、聖徳太子の臣下だった泰川勝に贈られ、後には広隆寺となる蜂岡寺に安置されたそうです。飛鳥時代から奈良時代にかけて朝鮮半島から数多くの弥勒菩薩像が輸入されると共に、国内でも著名な仏師によって、多数の弥勒菩薩像が作られるようになります。

それらの弥勒菩薩像は京都や奈良などの寺院に安置されていて、参拝者が拝めるようになっています。

弥勒菩薩と末法思想

弥勒菩薩は末法思想とも関係が深いです。弥勒菩薩像が日本に伝来してから時代が進み、平安時代から鎌倉時代になると、武士が台頭するようになって争いごとが目立つようになります。さらに、僧兵の出現で仏教界が退廃したため、庶民の間で末法思想が広がるようになりました。

争いが絶えない荒廃した世の中で、末法の救世主になる弥勒菩薩を庶民が信仰するようになったのも自然の成り行きだったかもしれません。「弥勒下生経」に基づく弥勒信仰が急激に広がった時代です。

弥勒菩薩には太陽神の側面もあるため、弥勒菩薩は東の海から船に乗ってやって来ると唱える民間信仰も広がりを見せ、弥勒菩薩の到来を祈願する弥勒踊りが太平洋を東に臨む関東から静岡にかけて流行したほどです。

五穀豊穣祈願に弥勒菩薩を祀ることが増えたのも、平和な時代を望む庶民に気持ちが反映されたからでしょう。

弥勒菩薩の宗派

弥勒菩薩の宗派は法相宗です。法相宗には次のような特徴があります。

インドの思想を継承して生まれた宗派

法相宗はインドの思想を継承して生まれた唐時代の中国の宗派の1つです。僧侶にして翻訳家だった玄奘により伝えられた後に弟子である慈恩大師・基によって開かれました。

インドの思想を継承した法相宗が日本の仏教として発展できたのは、やはり玄奘の弟子だった道昭の功績によるものです。7世紀半ばに道昭によって広められた法相宗が大きく興隆したのは8世紀以降です。

奈良仏教の1つ

法相宗は代表的な奈良仏教の1つであり、庶民の救済を主眼としていた平安仏教や鎌倉仏教と比較して、学術的要素が強かったと言われています。奈良仏教は日本の仏教の歴史の中で重要な役割を果たしており、現在に至るまでの仏教の基盤を築いた存在だと言われています。

天台宗と真言宗によって成り立っていたる平安仏教が「平安二宗」と呼ばれていたのに対し、奈良仏教は法相宗を始めとした華厳宗や律宗など6つの宗派があったため、「南都六宗」とも呼ばれていました。

南都六宗の「南都」は奈良時代の中心都市として知られた平城京を指したものです。後の時代を代表する平安京から見て南方に位置していたことから「南都」と名付けられました。

法相宗の極意

この世のすべては「識(心)」だと考えるのが法相宗の極意です。人間を肉体などの物理的な存在としてだけではなく、心理的な存在現象として捉えた斬新な発想を持っているのが法相宗です。

自我がある人間の意識を起点として、実はこの世のすべてが「識(心)」なのではないかという考え方は、現在のスピリチュアルに通じるものがあります。現代のように量子力学の観点から検証できなかった時代に、この世のすべてが「識(心)」だと捉えたのは、極めて卓越した心眼によるものです。

法相宗の考え方を極めていくと、無我の境地にも達することができ、宇宙とつながることができたでしょう。

弥勒菩薩像の特徴

弥勒菩薩像には次のような特徴があります。

半跏思惟像(はんかしゆいぞう)が多い

弥勒菩薩像には座った状態で足を半分だけ組んで、そこへ片手を頬についたポーズの「半跏思惟像」が特に多いです。何かを深く考えているようにも見え、落ち着いた佇まいになっているのも魅力です。

弥勒菩薩の発祥地だったインドのガンダーラで作られた初期の弥勒菩薩像は顔つきも身体つきも男らしさが強調されていました。それに対して、朝鮮半島から日本に伝来した弥勒菩薩像や、その後に日本の仏師が作った弥勒菩薩像は男らしさが封印されていて、男性なのか女性なのかわからない中性的なデザインになっています。

弥勒菩薩像は美術的にも高い価値があり、寄木造りなどの新しい手法で作られているのも特徴です。国宝に指定されている弥勒菩薩像も多く、京都や奈良に行った際には一見の価値があるでしょう。

半跏思惟像の原型は釈迦像

下げた左足の上に右足を組んで、指先を頬にあてて深く考え込んでいるように見える半跏思惟像の原型になっているのがガンダーラ彫刻で作られた出家前の釈迦像だと言われています。

この釈迦像を原型として中国や朝鮮で作られた弥勒菩薩像が日本に伝来したことを考えても、弥勒菩薩と釈迦の縁の深さがわかるでしょう。しかし、原型は釈迦像だとしても、弥勒菩薩像のポーズはやはり独特です。

足を組んでいるものの、いつでも立ち上がる準備ができているようにも見えます。はるか遠い未来に、この世に降り立った際に人類をどうやって救うかを深く考えているようにも感じられます。

弥勒菩薩像には半跏思惟像が多いものの、立像や坐像の弥勒菩薩像もあり、バリエーションが多いです。

アルカイック・スマイル

弥勒菩薩の最大の魅力は「アルカイック・スマイル」と呼ばれる優美な微笑みでしょう。中性的な細身の身体と優しい微笑みの組み合わせが木で作られた像だとは思えないほどの魅力を放っています。

「アルカイック・スマイル」とはもともと、古代ギリシャのアルカイク美術の彫像に見られる表情だったため、そのように呼ばれるようになりました。顔の感情表現が抑えられていながら、口元だけが優しく笑っているのも特徴です。生命力と幸福感を表現するために作られた表情だと言われています。

写真などで見るよりも、実際に近くで本物の弥勒菩薩像を見ると、吸い込まれるような感覚になります。時間が止まったように我を忘れて見入ってしまうのは、時空を超えた感動を覚えるからでしょう。弥勒菩薩像のアルカイック・スマイルは初代ウルトラマンのモデルにもなっていると言われています。

弥勒菩薩像を見られる寺院

弥勒菩薩像は次の寺院で見ることができます。京都や奈良の日本を代表する寺院に安置されています。

京都・広隆寺(こうりゅうじ)

京都の広隆寺には有名な弥勒菩薩像が安置されています。

京都で最も古い寺院

広隆寺は京都で最も古い寺院として知られ、建立されたのは603年だと言われています。創建当初から現在地にあったかは定かではなく、京都市北区平野神社付近に創建されたものが、平安遷都の前後に現在地に移転したという説も有力です。日本書紀などに創建当時の記録があったものの、818年の火災で焼失してしまいました。

広隆寺の古い記録が火災で失われたために、不明な点があるとしても、秦河勝が聖徳太子から賜った弥勒菩薩像を本尊として祀るために建立した寺院であることは確かなようです。

入り口には仁王像に守られている大きな楼門があり、重要文化財に指定されている講堂などにも注目です。

宝冠弥勒(ほうかんみろく)

広隆寺には2体の弥勒菩薩像が安置されており、その1つが宝冠弥勒です。飛鳥時代に作られた像であり、国宝の第1号としても知られています。「宝冠弥勒」と呼ばれているのは、宝冠を冠っているように見えるからです。

創建当初は本尊とされていたものの、平安遷都前後からは薬師如来が本尊とされるようになりました。本尊ではなくなったものの、弥勒菩薩像としての価値が下がるわけではなく、国宝としての輝きは変わりません。

広隆寺の宝冠弥勒が作られた当時、多くの仏像がヒノキで作られていたのに対して、宝冠弥勒は赤松の一本造りなのも特徴です。高さが約124cm、右足を左膝に乗せ、右手を頬に当てて思索にふける姿が魅力的な半跏思惟像です。優しさに満ちた微笑みがとても美しく、参拝者の感動を呼ぶ弥勒菩薩像として人気があります。

宝髻弥勒(ほうけいみろく)

広隆寺に安置されているもうひとつの弥勒菩薩像が「宝髻弥勒」です。宝冠弥勒と同様に国宝に指定されている貴重な弥勒菩薩像として評価が高いです。高さが約90cmと、宝冠弥勒に比べてやや小さく作られています。

宝冠弥勒が赤松で作られていたのに対して、宝髻弥勒は楠(くすのき)材で作られています。楠材は飛鳥時代に使われた材料としては一般的でした。宝髻弥勒の表情は泣いているように見えるために「泣き弥勒」とも呼ばれています。物憂げな表情がまた魅力的でもあり、参拝者の心を惹き付けているでしょう。

優しく微笑む宝冠弥勒とは対照的な表情が魅力であり、宝冠弥勒と宝髻弥勒の両方を見るのがおすすめです。

京都・醍醐寺(だいごじ)

京都の醍醐寺(だいごじ)には有名な弥勒菩薩坐像が安置されています。

真言宗醍醐派の総本山

醍醐寺は874年に弘法大師空海の孫弟子である、理源大師聖宝によって建立された真言宗醍醐派の総本山です。

醍醐山全体を寺域としているほど広く、山上の上醍醐と山下の下醍醐から成り立ちます。世界遺産に認定されるほどに重要文化財を含む建造物・仏像・絵画・文書を伝承している点でも特筆されます。

三宝院は建物の大半が国の重要文化財に指定されているほど充実しており、表書院は桃山時代の寝殿造り様式を伝える代表的な建造物であり、国宝に指定されているほどです。

951年に建立された五重塔は京都府下で最も古い木造建築物であり、国宝に指定されています。この五重塔は高さが38mもあり、屋根の上の相輪は約13mという巨大な塔です。初層の内部には両界曼荼羅や真言八祖が描かれ、日本の密教絵画の源流になったと言われるほど価値があります。

金堂は平安末期の様式が残る国宝として認定されているものの、926年に建立された後に永仁・文明年間に2度に渡って焼失しています。現在の金堂は紀州湯浅から移築が計画され、1600年に完成したものです。

快慶作の弥勒菩薩坐像

醍醐寺に安置されている弥勒菩薩坐像は仏師の快慶によるものです。快慶は運慶と共に鎌倉時代を代表する仏師の1人として知られています。快慶は安阿弥陀仏とも称し、理知的で繊細な作風は弥勒菩薩像だけでなく、三尺前後の阿弥陀如来像を作る際にも活かされています。

醍醐寺の弥勒菩薩坐像は高さが約110cm、檜(ひのき)の寄木造りで金泥塗りの傑作です。菩薩でありながら如来のような袈裟をまとっており、優雅で穏やかながら強い威厳も感じられる弥勒菩薩坐像になっています。

1192年の作品であることが判明しており、制作年度がわかっている快慶作品の中で2番目に早いです。

奈良・興福寺(こうふくじ)

奈良の興福寺には有名な弥勒菩薩立像が安置されています。

法相宗の大本山

興福寺は奈良県奈良市登大路町にある法相宗の大本山の寺院です。南都七大寺のひとつであり、本尊には中金堂の釈迦如来が安置されています。藤原氏の祖である藤原鎌足とその子息の藤原不比等ゆかりの寺院にして藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な権勢を誇ったことでも知られています。

710年の和銅3年の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転して「興福寺」と名付けました。この710年が興福寺の実質的な建立年度だと言われています。

平城に遷都してから間もなく中金堂の建築が開始したとされており、その後も天皇や皇后、藤原氏によって堂塔が建立されてきた歴史があります。不比等が没した720年の養老4年には「造興福寺仏殿司」と呼ばれる役所が設けられ、もともと藤原氏の私寺だった興福寺の造営が国家の手で進められるようになりました。

快円作の弥勒菩薩立像

興福寺に安置されている弥勒菩薩立像は1253年に快円によって作られました。高さ87cmで木造、金泥塗りで彩色・切金、玉眼というのが、興福寺にある弥勒菩薩立像の特徴です。

仏師である快円の作風は、快慶に近く、快円の名前が示すように快慶の弟子だろうと言われています。

奈良・東大寺(とうだいじ)

奈良の東大寺には有名な木造弥勒仏坐像が安置されています。

奈良の大仏で知られる東大寺

奈良の大仏で知られる東大寺には、多くの人が修学旅行で行ったことがあるでしょう。聖武天皇の皇太子である基親王の冥福を祈る目的で「金鍾山寺」が建てられたのが728年のことでした。

聖武天皇が国を治めていた時代は飢饉や疫病の流行など、多くの災いが起きていたため、仏様の力で国を守ろうと考えた聖武天皇は寺院の建立を指示します。その指示によって「金鍾山寺」は天皇の指示によって建立された寺院である国分寺に昇格し、「金光明寺」へと名前が変わります。

「金光明寺」は現在の「東大寺」の前身であり、743年には聖武天皇が国の平和を願って大仏を作るように指示を出します。この大仏が現在の東大寺に安置されている「盧舎那仏」です。

その後にも様々な建造物が建てられて「東大寺」が完成したものの、855年には大地震や落雷で講堂や南大門が倒壊してしまいます。1180年には平重衡による焼き討ちにより、大仏殿も焼失しました。

1190年に大仏殿を再建したものの、戦国時代に入ってから複数の建物が戦火に巻き込まれて消失しています。江戸時代に修理が認められて、失われた建物の復興が成し遂げられました。

明治時代以降は改修と修理を繰り返して現在に至っています。このように見ると、東大寺は決して順調に歴史を重ねてきたのではなく、意外なほど苦難の歴史があったことがわかるでしょう。

木造弥勒仏坐像

東大寺に安置されているのが「試みの大仏」とも呼ばれている木造弥勒仏坐像です。「試みの大仏」とは、大仏の試作品という意味がありますが、実際には大仏建立よりも後の時代の作品だと言われています。

高さがわずか39cmであるにもかかわらず、写真だけを見れば、はるかに大きいと感じられるほどのスケール感があります。東大寺を開いた良弁による自作だと言われる木造弥勒仏坐像であり、現在は東大寺ミュージアムに安置されています。2015年には国宝に指定されたほどの作品です。

和歌山・慈尊院(じそんいん)

和歌山の慈尊院には、弥勒菩薩坐像が安置されています。

高野山開山のために建立された寺院

和歌山の慈尊院は816年に弘法大師が高野山開山のために建立しました。当時の高野山は女人禁制だったため、弘法大師の母親が暮らしていたそうです。慈尊院には女性を受け入れたお寺としての歴史があることから、安産や子授けのご利益があるとされ、安産祈願を目的とした参拝者が全国から数多く訪れています。

弥勒菩薩坐像

慈尊院に安置されているのが国宝の弥勒菩薩坐像です。本尊として弥勒堂に祀られており、21年に1度しか開扉されません。21年に1度しか見られないとなると、一生の中でも数回見るのが限界ということになるでしょう。

空海の母親が弥勒菩薩の化身になったというスピリチュアルな伝説もあり、弥勒は別名で「慈尊」とも呼ばれることから「慈尊院」になったとされています。

弥勒菩薩坐像は1963年に国宝に指定され、弥勒堂も1965年に重要文化財に指定されました。

アメリカ・ボストン美術館の弥勒菩薩立像

1189年に快慶が作った弥勒菩薩立像がアメリカのボストン美術館に安置されています。高さが106.6cm、木造の漆箔造りなのが特徴です。今でも日本にあったなら国宝に指定されていたでしょう。

製作年度がわかっている快慶の作品の中で最も古い作品です。本来なら日本にあるべき弥勒菩薩像がはるか遠くのアメリカの美術館に安置されていることには、複雑な歴史が関係しています。快慶の弥勒菩薩立像を含めて、10万点にも及ぶ日本の文化財がボストン美術館に所蔵されています。

西洋崇拝が進んだ明治維新当時、日本の伝統文化を嫌う風潮が強くなり、神仏分離令とそれに続く廃仏毀釈運動が起きました。寺院の仏像の破壊が多発し、日本の文化遺産が守られない危険な状況でした。

そんなとき、アメリカ人のフェノロサとその教え子の岡倉天心が日本の美術品の救済に乗り出します。資産家の協力のおかげもあり、日本の美術品の数々が破壊を免れてボストン美術館に運ばれて保護されました。快慶作の弥勒菩薩立像もそのようにして救われることになりました。

弥勒菩薩は未来仏

弥勒菩薩は56億7千万年後の遥か遠い未来の地上に現れて、人類を救う未来仏だとされています。

弥勒菩薩は釈迦の弟子であり、釈迦を継ぐ者

弥勒菩薩は釈迦の弟子であり、はるか遠い未来に民衆を救うと言われています。弥勒菩薩になる前の弥勒は実在した人間であり、釈迦とは師弟関係にありながら、釈迦よりも先に死んでしまいました。

弥勒が死ぬ直前に釈迦は「亡くなった後、須弥山の上空にある兜率天で修行し、この世に再び再生した時には、私の教えに漏れた人々も救ってください」と伝えたそうです。そのように言われた弥勒は釈迦の教えに従って、修行に励み、悟りを開いて人々を救おうとしています。

仏教での悟りを開くまでには厳しい修行が必要であり、苦難の連続ですが、釈迦の意志を継ぐ者としての責任感が弥勒菩薩の原動力になっているのでしょう。

弥勒菩薩の悟りの段階

仏教で言われる「悟り」は全部で52段まで分かれており、最低レベルの1段目から最高レベルの52段目まであります。弥勒菩薩はこれまでの厳しい修行により、51段目まで来ていますが、菩薩を脱却して仏になるには、もう1段レベルアップが必要です。しかし、悟りもレベルが上がるほど、さらに上を目指すのが難しくなります。

一見、不可能に思えるほどの難関ですが、弥勒菩薩は不可能を可能にしてくれるでしょう。

弥勒菩薩が悟りを開くまでに途方もなく時間がかかる理由

弥勒菩薩が悟りを開く時期としてよく言われているのが、56億7千万年後だということです。悟りを開くまでに途方もない時間がかかるのは、弥勒菩薩が修行している兜率天(とそつてん)と呼ばれる天界の時間の流れが人間の世界よりも400倍も遅いことが関係しているでしょう。

天界人の寿命は地上の人間とは比較になりません。天界の1日は人間界の400年に相当するので、天界人の寿命を計算すると、400年×365日×4000年=5億8400万年となり、これが天界人の平均寿命ということになります。

弥勒菩薩が地上に現れるまでの56億7千万年という期間は人間界の感覚では途方もなく長く感じますが、平均的な寿命が5億8400万年の天界人からすれば、それほど長く感じないかもしれません。

弥勒菩薩が修行している場所

弥勒菩薩が修行しているのは天界の兜率天(とそつてん)です。兜率天の特徴を紹介します。

兜率天とは

兜率天は仏教界の中心にある須弥山(しゅみせん)という山の上空に存在する天界のことです。弥勒菩薩は今も、悟りを開いて釈迦の後継者となるべく修行をしている最中です。

兜率天は数ある天界の中のひとつであり、欲界の第四番目の世界に位置します。兜率天には五感のすべてを満足させてくれるようなものが揃っている点では浄土に近いですが、浄土ではありません。

しかし、弥勒菩薩が修行して、未来仏になるための最適な環境なのは間違いないでしょう。

兜率天の位置

兜率天は、地上から32万由旬(ゆじゅん)の上空にあり、広さは約8万由旬平方と言われています。由旬とは古代インドの長さの単位であり、約10キロから約15キロとされています。10キロとして計算しても、32万由旬だと、地上320万キロです。兜率天が驚くべき高さに位置しているのがわかるでしょう。

兜率天は内院と外院の2つに分かれ、内院には将来必ず仏になることが約束されている菩薩が住んでいます。

弥勒菩薩が現れる場所

56億7千万年後に弥勒菩薩が現れる場所については、次のように考えられています。

高野山の可能性

弥勒が地上に現れる時期については、56億7千万年後であることが決まっているようですが、どこに現れるかは諸説あります。お経には弥勒菩薩が現れる場所が3ヶ所あり、その中のひとつが高野山だとされています。

56億7千万年後という時期についても、実際に実現するかは未知数でしょう。なぜかと言えば、宇宙物理学的に考えると、太陽系の寿命自体が56億年程度だと言われているからです。

弥勒菩薩が修行を終えて悟りを開いたとしても、いざ地上に戻ろうとしたら、地球自体がなくなっていたということも有り得るでしょう。実際にそのときになってみないとわからないことが多いのが弥勒菩薩です。

外国に出現する可能性もある

そもそも、弥勒菩薩が日本の中のどこかに出現するとは限りません。もともと弥勒菩薩が発祥したのはインドのガンダーラであり、現在のパキスタンあたりの場所です。弥勒菩薩が発祥した地域に出現してもおかしくないでしょう。日本に弥勒菩薩を伝えた中国や朝鮮半島に出現する可能性もあります。

日本に弥勒菩薩が出現するとしても、それは可能性のひとつに過ぎません。何しろ56億7千万年後という、はるか遠い未来の話なので、いくら予測してもわからないでしょう。

弥勒菩薩の真言

弥勒菩薩には真言と呼ばれるマントラがあります。弥勒菩薩の真言について紹介しましょう。

弥勒菩薩の真言とは

弥勒菩薩の真言とはサンスクリット語のマントラを訳した言葉であって、「偽りのない仏の言葉」という意味があります。真言には弥勒菩薩の教えが秘められていると言われているように、真言をマスターするほど、ご利益を受けられる可能性が高くなるでしょう。

弥勒菩薩の真言は「オン・マイタレイヤ・ソワカ」です。「オン」は「帰依」を意味します。帰依とは、神・仏・高僧などのハイレベルな精神性を持つ人たちを信頼して全面的に頼ることです。

より強く信頼できるほど、真言の効果が高くなるのを実感できるでしょう。

真言を唱えるべき回数

一般的に真言を唱えるべき回数は3回、7回、21回、108回を基準とします。最初から108回唱えるのはきついですから、まずは3回から始めてみるといいでしょう。毎日真言を唱えることを習慣化すると、回数が多くなっても苦しくなくなります。何事も続けると適応力がついて慣れるのは真言も同じです。

真言を唱える回数についての基準は決まっているものの、いつ唱えるべきかの時間的な制約はありません。外出する前に唱えてもいいですし、寝る前に唱えるように習慣化するのもいいでしょう。

重要なことは、心を込めて真言を唱えることを習慣化することです。

真言の効果

弥勒菩薩の真言を唱え続けると「衆生救済・極楽往生」の効果があると言われています。「衆生救済」とは、仏や菩薩が現世での苦しみからすべての人々を救済し、悟りへと導くという意味です。「極楽往生」は、死んだ後の世界として極楽浄土に生まれ変わることや、安らかに死ぬことを意味しています。

真言を唱えることを習慣化することで、潜在意識に定着することもできるでしょう。潜在意識は人間が自覚する顕在意識よりもはるかに広いので、潜在意識に真言を刷り込むことが、さらなる効果を引き出します。

弥勒菩薩の信仰とご利益

弥勒菩薩の信仰として次の2つがあり、弥勒菩薩を信仰することによるご利益もあります。

上生信仰

「上生信仰」とは、自分が弥勒菩薩が修行している兜率天に生まれることで、遠い未来の56億7千万年後に弥勒菩薩と一緒に人間界に生まれることを願う信仰です。

上生信仰は法相宗などの奈良仏教、天台宗や真言宗で行なわれていました。大化の改新の中心だった藤原鎌足は上生信仰の信者で弥勒菩薩がいる兜率天に生まれたいと考えていたそうです。

真言宗の開祖である弘法大師空海も兜率上生を願っていたのを見ても、かなりの影響力があったのでしょう。

下生信仰

法相宗などの奈良仏教、天台宗や真言宗で行なわれていた上生信仰でしたが、単に信仰するだけではなく、自分でも苦しい修行をしなければならないのが難点でした。そこで、生まれたのが「下生信仰」です。

下生信仰とは、弥勒菩薩の兜率天に上生を願う上生信仰とは対照的に、弥勒如来の悟りを開くのが56億7千万年という遠い未来ではなく、今なされるからそれに備えなさいという信仰でした。

浄土信仰に類した上生信仰に対して、下生信仰は弥勒下生に合わせて現世を変革すべきだという終末論や救世主を待ち望む声が強かったようです。56億7千万年という遠い未来まで待てないと感じたのでしょう。

弥勒菩薩を信仰することのご利益

弥勒菩薩を信仰することのご利益は、死後に弥勒菩薩が修行している兜率天に行き、弥勒菩薩が地上に戻る際、再び人間に生まれ変われることです。人間は輪廻転生を通じて何度も生まれ変わりますが、仏教の考え方では、人間界に生まれ変わるには六道の輪廻を何度も繰り返す必要があります。

六道輪廻とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の6つの世界であり、来世でどこの世界に行くかは誰にもわかりません。苦しい地獄や餓鬼、畜生の世界に行く可能性もあります。

しかし、弥勒菩薩を信仰すれば、死後には兜率天に行くことができ、苦しい思いをすることなく人間界に生まれ変わることができるとされています。弥勒菩薩には減罪の力が大きいことも関係しているでしょう。

おわりに

弥勒菩薩の発祥はインドのガンダーラで、現在のパキスタンのあたりになります。初期の頃にガンダーラで作られた弥勒菩薩像は身体つきもがっしりしていて男らしさが強調されていましたが、中国や朝鮮半島を経て日本に伝わった弥勒菩薩像からは男らしさが減って、中性的なデザインになっています。

現在、日本の寺院に安置されている弥勒菩薩像は海外から伝来したものだけでなく、快慶らの日本の仏師による作品も少なくありません。快慶が作った弥勒菩薩坐像は京都の醍醐寺に安置されており、製作年度がはっきりとしている中で2番目に古い快慶作品になります。

快慶が作った弥勒菩薩像で最も古いとされているのがアメリカのボストン美術館に安置されている弥勒菩薩立像です。本来なら日本の寺院に安置されていたものでしたが、明治維新の頃に進んだ廃仏毀釈運動による仏像破壊から守るためにアメリカのボストン美術館に運ばれて保護されることになりました。

未来菩薩は未来仏であり、56億7千万年後に地上に戻って人類を救済するとされています。しかし、弥勒菩薩は「菩薩」であり、現段階ではまだ修行中の身です。悟りを開くために現在、52段階中の51段まで来ていますが、ここからもう1段上のレベルに到達して悟りを開くまでには56億7千万年かかると言われています。

56億7千万年後にというのは想像もつかないほど先の未来ですが、太陽系の惑星として地球が存在しているかがわからないほどです。しかし、弥勒菩薩を信仰すれば、死後には弥勒菩薩がいる兜率天に行くことができ、弥勒菩薩が地上に戻るのに合わせて再び人間界に転生できると信じられています。

弥勒菩薩には、このようなスピリチュアルな要素が強く、本当に未来仏になるのかが注目されています。

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