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日常生活の中でマインドフルネスを実践する方法

日常生活の中でマインドフルネスを実践する方法

マインドフルネスは、いま、この瞬間の気づきを保ち、目の前のことに集中する状態のことです。そのような状態をつくるための方法には、さまざまなものがあります。

世間では『マインドフルネス=瞑想』というイメージだけが先行してしまっています。その方法として、瞑想がよく知られていますから、仕方のないことかもしれません。

しかし、マインドフルネスの状態をつくるための方法は、ふつう考えられているような瞑想だけではありません。静坐瞑想(坐禅)やヨガなどといった、いかにも瞑想らしいと思われるような瞑想のほかにも、さまざまな実践方法があります。

この記事では、生活の中で実践できるマインドフルネスを解説します。

そして、そのことによって、世間で考えられているような瞑想のイメージとはちがった、マインドフルネスの実像を知っていただきたいと思っています。

【『マインドフルネス=瞑想』ではない】

瞑想は、われわれの立場から見れば、日常を離れた体験ということとなります。

しかし、マインドフルネスの本質は、日常から離れたところにあるのではありません。『マインドフルネス=瞑想』というイメージは、部分的な見方にすぎません。

なぜなら、マインドフルネスは、瞑想そのものではなく『今ここ』の体験に気づき、ありのままに受け入れることだからです。『今ここ』の体験というのは、ふだん、われわれが生活をしているあいだに体験することのうちで、すべてのものごとを含みます。

たとえば、お寺における修行僧の生活様式では、昼間起きている時間の多くは、境内の掃除や、食事の支度などといった、日常の動作をすることにあてられます。実際に禅僧が坐禅を組む時間は、世間の人々が考えているよりも少ないのです。

ただし、禅寺では、それらのあらゆることを、修行としておこないます。雑用のようなことや、何気ない動作でも、注意や集中力を保つための訓練とするのです。

『今ここ』の体験にたいする気づきを保つ、ということは、そのように、日常生活のあらゆることに集中力をもって臨む、ということです。

もちろん、マインドフルネスは瞑想を活用しますけれども、瞑想をつうじて、ありのままの自己にたいする気づきを高めたならば、その注意集中力を、ほかのことにも向けることができるようにするのです。

【歩行瞑想の応用】

歩行瞑想(経行)は、マインドフルネスで推奨されている瞑想のうちの一つです。

禅寺では、静坐瞑想(坐禅)に取り組む時間の合間に、脚のしびれをとるために実践される『歩く瞑想』として、歩行瞑想をおこないます。歩行瞑想では、一歩ずつ、歩く動作に注意を向けることによって、集中力の訓練をします。

この歩行瞑想を応用するならば、ふだん歩くときの動作さえも、瞑想とすることができます。

ただし、外出するときなどに、ふだんの歩行で、一歩ずつ『かかとが上がった』とか『つま先が着地した』などといった感覚に集中することは、難しいことです。用事があるようなときに、そのようなことをしていたら、遅刻してしまいます。

だから、外出時の歩行瞑想は、やり方を変えておこないます。

歩く動作ではなく、歩いているときにする呼吸のリズムに意識を向けるのです。このときには、呼吸を数えやすいように、回数を偶数にするとよいです。

たとえば、出勤の通路で歩くときなどに、その歩いている時間を活用して、呼吸を意識しながら数えます。6歩歩く瞬間のうち、5歩は吐く息に合うように吐いて、のこりの1歩は吸う息と合うようにする、というふうに、両足の動きと合わせることができるリズムで呼吸します。

禅では、呼吸を数える瞑想のやり方は『数息観』とよばれています。呼吸の数を意識することが、集中力を保つための助けとなるのです。

通勤時間に歩行瞑想をおこなうこともよいですけれども、休日などに、外を散歩しながら呼吸を意識する時間をもつことも、よいことです。

もしも、可能ならば、自然を感じることができるような場所へ行って、歩いてみることをおすすめします。森や、山や、海の波や、川の流れなど、地球の生命力を実感できるような自然には、ゆらぎがあります。とくに、都市にお住まいの方々は、自然とは遠い環境で生活している、ということそのものが、自覚のないストレスの原因となっています。

筆者は、ある山の麓を訪れたたとき、その山から流れてくる川の音を聞いて、心を打たれたことがあります。テレビの映像で川の風景を映しているときがありますけれども、映像で見た川の音は、実物にはかなわないという印象を受けました。

日帰り旅行などでもよいので、自然の環境に回帰するような体験をするならば、それは、人間にとって、本来の心持ちを気づかせてくれるようなものとなります。

【マインドフルイーティングの応用①】

マインドフルイーティングは『食べる瞑想』です。この瞑想法は『粥坐』として、禅の修行の中で実践されてきました。

『食べる瞑想』では、食事の動作を、瞑想のような注意力をもっておこないながら、目の前にある食べものを食べます。食べものの色や形、質感などを細かく観察したあとで、それをゆっくりと口に入れて、味や食感に注意を集中させます。食べものを飲みこむときにも、のどを通る感覚に注意を向けます。

精神疾患の治療にマインドフルネスを応用した人物であった、ジョン・カバットジンによれば、マインドフルイーティングを実践することよって『食べものにたいする衝動はコントロールしにくい』ということや『それを簡単に満足させる方法がある』『自分がしていることに意識的になれれば、自分の感情をコントロールすることができる』ということなどを知ることができます。

多忙で、時間やタスクに追われているような人々さえも、まったく食事をしない日はありません。

食事という習慣の中で、ふだんは意識しないような感覚を意識化するような食べ方をするようになれば、ただ集中力の訓練ができる、というだけではなく、ダイエットとしての効果も期待することができます。もしも、食事を瞑想とする習慣を身につけるならば、食生活や、身体の健康にも、プラスの影響が起こってくるのです。

ある量のものを食べるときに、食べるときの感覚をゆっくりと味わいながら食べるほうが、早く食べるときよりも、満腹感を感じやすいのです。忙しさに追われてしまうために、食事のときにも、食べものを早口で、急いで食べる方々がいますけれども、そのような食べ方では、満たされにくいことに加えて、栄養の吸収という観点から見ても、効率がよくありません。

ゆっくり食べている時間がないときでも、最初のひとくちだけ、しっかりと味わってみることをおすすめします。

また、テレビを観たり、スマートフォンを眺めながら食事をする場合のように、食事をしながらそれ以外のことを同時進行させることは『ながら食べ』とよばれています。

しかし、食事をしているときにほかのことをしていると、食事量が増えてしまいます。『ながら食べ』は、肥満の原因となります。

そのことを逆にいうならば『ながら食べ』をやめるだけでも、ダイエット効果がある、ということです。

マインドフルイーティングは、食事と瞑想を切り離さないで、それらの根本では、関係があることとして捉えます。

カバットジンは、マインドフルイーティングを患者におこなわせるために、レーズンを、毎回三粒ずつ与えていました。

現代のマインドフルネスでは、カバットジンが考えた、レーズンを使った『食べる瞑想』がおこなわれる場合が多いです。ひとくちで食べることができるようなものは、意識を集中させやすいのです。

もちろん、レーズンのほかにも、どのような食べものでも、マインドフルイーティングを実践することができます。

【マインドフルイーティングの応用②】

『粥坐』は、ただ食べることだけではありません。

自己の手で料理をすることも、また、修行の一環として、禅僧たちによって実践されつづけています。

現代のマインドフルネスにおけるマインドフルイーティングでは、食べる動作を瞑想とすることだけが強調されてきました。マインドフルネスについての文献などを読んでも、料理をつくることとマインドフルネスを関連させているような文章は、あまり見られません。

しかし、その中でも、例外はあります。

たとえば、曹洞宗の禅僧である、升野俊明が著した《禅と食》という本は、題名のとおり、禅の思想と、食事のあらゆることに関係がある、ということを示してくれています。その著作の中で、枡野は、道元のことばを引用しながら『料理という日常のふるまいによって自己の心を整える』ということを提案しています。

ただ食べるだけではなく、自分の手でつくった料理を食べたり、他人に料理をつくることも、また、瞑想とすることができるのです。

実際に、お寺で料理を担当する『典座』という役職には、ある程度まで修行を積んだ僧侶が任命されます。それほど、料理と修行とは、分けることができないものとされているのです。道元の著作である《典座教訓》で、道元は、心をこめて料理をすることの大切さにを説いています。

禅僧のためにかかれた著作の中でも《典座教訓》のような書物は、道元よりも前には、ありませんでした。

なぜなら、道元の時代よりも昔には、日本や中国の僧侶たちは、食事にたいして、あまり関心を払わなかったからです。

心をこめて料理をする、ということは、1日のうち3食の料理における、あらゆることに気を配らなければ、うまくできないことです。食材を選ぶ段階で、すでに『典座』ははじまっています。食材を大切に使ってつくる料理は、よい心持ちでできるものです。そのあとも、どれほど食材を残さずに使うことができるか、といったことに、それらの食材や、食べる人にたいする心のあり方があらわれます。

 

【生活動作を集中しておこなう】

基本的に、きめられた所作や、ある動作を反復するという特徴をもつようなことは、マインドフルネスの集中状態をつくるために活用することかできます。

たとえば、茶道では、お茶をたてて飲む、という動作を、きめられた作法や型にしたがいながらおこないます。

また、先ほど述べた『典座』という食事のマインドフルネスなども、動作のマインドフルネスに該当します。

反復する動作を意識することによって、集中状態をつくるための訓練とする方法は、たくさんあります。

マイクロソフトを創業した、ビル・ゲイツは、椅子に座って考えごとをするときに、脚を揺らす癖があります。このような癖は、貧乏ゆすりとよばれていますけれども、ビル・ゲイツの場合も、繰り返し脚を揺らす動作を、集中力を高めるために活用していると思われます。

しかし、できるならば、周囲から無作法だと思われるような動作は、避けたほうがよいです。あたりまえのことですけれども、人前でおこなっても違和感のない動きのほうが、無難です。どのような場面でも集中状態に入ることができるように、動作のマインドフルネスは、さりげなくおこなうことができるようなものがよいです。

たとえば、スポーツの試合には、選手に精神的なプレッシャーがかかります。

テニスのような、個人の実力が試される競技では、選手は、そのプレッシャーを、ひとりで引き受けなければいけないことがあります。

テニス選手が、持っているラケットに触ったりする動作は、ラケットに意識を向けて、集中力をとりもどすための動作です。スポーツ選手を観察していると、持ちものを使うことによって、うまく集中力をコントロールしているような動作が見られます。

そのように、われわれも、ふだん持ち歩いているものに触るときの感触を利用して、気づきの状態をつくることができます。

【まとめ】

マインドフルネスの研究者であった、ジョン・カバットジンは、瞑想というのは『全体性』を理解するための最初のステップにすぎない、ということを述べています『全体性』というのは、人間の体が一貫した統制をおこなっている、ということです。自己を統制する力は、人間だけではなく、地球という全体にも、そなわっているといわれています。人間は、地球の一部ですから、個人がひとつの全体であるとともに、われわれは、より大きな全体の中にいるのです。

そして『全体性』を理解するためには『日常生活の中で、子供のような新鮮な目でものを見るようにしてみてください』とカバットジンは勧めています。新鮮な目でものごとを観察することによって、日常生活の体験が、それまでとは異なるものに変わることがあるのです。

瞑想の習慣が、こころによい影響をもたらすことは、事実です。

しかし、マインドフルネスと生活を結びつけるための方法は、いつでも、どこにでもあるものなのです。

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