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【禅・マインドフルネスの名言格言】禅とマインドフルネスのことば7選

【禅・マインドフルネスの名言格言】禅とマインドフルネスのことば7選

禅の格言は『禅語』とよばれています。

禅語の中には、われわれ日本人に親しまれているような表現もあります。たとえば『正念場』ということばは、もともと、禅の格言でした。

日本語の表現には、禅のことばが、たくさん含まれているのです。

そして、禅の思想は、現代においては、マインドフルネスの考え方と結びついています。ブッダが説いた教えのうちの一つである『正念』という語が、英語圏では『Mindfulness』と翻訳されました。禅の瞑想や、その哲学の実践にたいして、欧米の研究者たちが注目して、禅に科学的な根拠を与えました。

今では、わが国にマインドフルネスが逆輸入されたことによって、禅の精神も、再評価されるようになりました。

この記事では、私が選んだ、禅とマインドフルネスの本質をあらわす格言を紹介します。

【平常心のことば】

『打坐して身心脱落することをえよ』道元

禅や、マインドフルネスでは、生活のあらゆることにたいする集中力を養うために、瞑想を推奨します。

しかし、道元の禅が、ほかの禅思想とちがうことは、集中状態を『目指さない』ということです。

道元は、ただ坐禅をしている人の、ありのままの姿が、すでに悟りである、と考えていました。

『打坐』というのは、坐禅にうちこむことです。

『身心脱落』というのは、身体と精神が、束縛されていない状態のことです。

つまり、瞑想をするときには、目的にとらわれずに、力を抜いて、瞑想にうちこむ、ということです。

このことは、ただ瞑想だけではなく、さまざまなことに該当します。

たとえば、テニス選手は、身体能力や、競技のスキルだけではなく、精神的なタフさをもっていなければ、よい成果をあげることができません。逆境や、ストレスから立ち直る力が重要なのです。

この場合に、試合において与えられるストレスが強すぎるならば、その選手は、逆境に押し負けてしまいます。

ストレスに負けないためには、どうすればいいのか。

ある選手は、試合中に、不利な立場に置かれたときに、冗談をとばす、という解決策をおこなっています。観客に向けて、冗談をとばすことによって、ストレスによる過剰な緊張をはね返すのです。

そのようにして、試合の合間の時間を利用しながら、そのあとのプレーに専念することができるような状態をつくるのです。事実、彼は、この方法で、テニスの世界大会を制覇しました。

心理学では、そのような、ストレスにたいして柔軟に対応して、逆境から回復する力を、レジリエンスとよびます。

そして、レジリエンスの力にも、道元がいうような、身心脱落という考え方が役立つのだと思います。

『蝶のさなぎを扱うのと同じように、自分を扱ってください』ジョン・カバットジン

カバットジンは、精神疾患の治療法として、禅の瞑想を取り入れた研究者でした。そのようにして、マインドフルネスのプログラムが開発されました。

彼は、マインドフルネスストレス低減法(MBSR)に必要な忍耐づよさを、子供が蝶になる途中のさなぎをこじ開けようとすることにたとえました。

蝶のさなぎをこじ開けるようなことをしても、それは、ほかのさなぎよりも早く蝶となるわけではありません。せっかちな行動は、かえって、蝶の成長を妨げてしまいます。

そのたとえと同じように、自己の心を観察するときには、その効果があらわれないことにたいして、あせらないようにすることが大切です。たとえ、長い時間がかかったとしても、あせらないで、じっくりと取り組むほうが、確実に、一つひとつの変化を感じることができるのです。

『平常心これ道』馬祖道一

中国の禅においては、平常心という概念が、禅僧たちのあいだで重要とされました。日本の禅では『平常心』を『びょうじょうしん』と読みます。

馬祖が『道』とよんでいるのは、禅道のことです。

そして、あたりまえのことをあたりまえのようにする心がけが『平常心』です。そのように、日常のあらゆることに気を抜かずに、一つひとつの動作に注意を向けながらおこなう、ということは、マインドフルネスの理想的な状態です。

それは、簡単なように思われますけれども、生活の中で注意集中力を実践するためには、労力が必要となることもあります。

しかし、

中国の禅は、生活や労働の中で禅を実践することを重要視しました。

インドの仏教とは異なり、中国では、禅僧たちは、集団労働によって、禅の共同体を運営していました。禅僧たちの共同体は、基本的に、自給自足で生活を営んでいました。僧侶でありながら、農業などにもしそしんで、彼らが直接、食料を生産していたのです。

そのような、シンプルな生活様式の中で、よけいなことを考えないで、あたりまえのことをやる、という生き方が実践されてきました。

彼らのような、文明にたよりすぎない生活をしている人々は、少数かもしれません。

しかし、そうではない場合にも、やはり、それぞれの生活で、あたりまえにおこなうことがあります。

その、あたりまえのことに、われわれは、どれほど集中することができているだろうか、と思うのです。

【世の中をどのように生きるか】

『この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』ブッダ

仏教では、ブッダの死を『入滅』とよびます。

上に挙げたことばは、ブッダがこの世を去ったときよりも、少し前に、彼の死を悲しむ弟子に語ったといわれている教えです。この教えは『自帰依』『法帰依』とよばれています。

『法』というのは、ブッダなどといった、真理に目覚めた人々の法、という意味です。仏法ということです。

ブッダの弟子たちにとって、彼らを導いてくれるような人物は、ほかならぬ、ブッダでした。

しかし、この世からブッダがいなくなってしまったあとには、弟子たちは、師に教えをこうことはできません。人生の道しるべとなるのは、ブッダが生前に説いた真理と、それを実践する自己の生き方です。

自己の生きる道を決めることは、修行者だけではなく、われわれにも必要なことです。たとえ、他者の力をかりることはできても、人は、他者が決めた方針にしたがって生きるのではありません。最後には、自己の意志が、生き方を決めるのです。

たとえば、江口克彦という経営者がいます。彼は、松下電器の創設者であった、松下幸之助の秘書をつとめていた人物です。

江口は、松下が亡くなったあと『私は一つの大きな夢を松下幸之助という人から受け継いだ』と述懐しています。事業をつうじて実現するべき夢をもつことを教えてくれた松下が帰らぬ人となっても、彼の夢を受け継ぎ、さらに、つぎの世代にも伝えることが、江口の原動力となったのです。

もちろん、自己を導いてくれる人物を失うことは、悲しいことです。

しかし、たとえ、人生の師となってくれた人物が亡くなったり、離れていくようなことがあったとしても、その人の志を受け継ぐことはできます。

また、江口は『自ら夢をつくり出し、その夢に向かって歩くことが大切なのである』とも言っています。過去の人物にすがるよりも、現在を生きる自己がどのように生きるか、ということを考えたほうがよいのです。

また、そのほかの人間関係でも、他者との別れを、自己を成長させてくれるような経験として解釈することができます。もしも、自己のやるべきことだけに専念しているような心の状態となることができたならば、その人は、おのずから、別れをポジティブにとらえるようになるのです。

『六道四生の中に遊戯三昧ならん』無門慧開

『六道四生』というのは、仏教用語となってしまいますけれども、簡単に説明するならば、迷いの世界、ということです。

『三昧』というのは、インドのサンスクリット語で『集中』という意味をもつ『サマーディ』という語に漢字を当てたことばです。

もしも、どのようなことにたいしても、遊ぶような気持ちで集中することができるようになることができたならば、人間として、全体的な生き方を経験することができます。

その、遊戯三昧に到達するための考え方について、慧開は『仏に逢うては仏を殺し、祖師に逢うては祖師を殺し』と述べています。

もちろん、ほんとうに殺すという意味ではありません。

心のとらわれをなくして、他者の意見を鵜呑みにするのではなく、自己を回復する、ということです。人生では、尊敬する人をもつことは大切ですけれども、その人のまねをするだけの生き方では、ほんとうの実感がともなわないのです。

たとえば、芸術家であった、岡本太郎は、パリに留学していたときに、パブロ・ピカソが描いた絵を観て、感動した、といいます。

そのあと、岡本は、ピカソをまねするのではなく、逆に『おれはピカソを越えている』と発言するようになりました。岡本が、自己の芸術的な立場を『反ピカソ』と言っているほど、岡本にとって、ピカソの存在は、偉大に見えました。

しかし、だからといって、ピカソとの仲が険悪だったわけではありませんでした。ピカソと岡本のあいだで、友好関係は、ずっと続いていました。

相手が、尊敬している相手であるために、その人に劣らないような人間としてありたい、という思いが、岡本を動かしていたのです。

だから、自己の手本となってくれるような人物がいたとしても、まったく、その人と同じような思考を身につけよう、などと思う必要はないのです。

むしろ、他者の考え方を参考とすることが、心のとらわれとなることさえもあります。それよりも、自己のよさを再発見して、自己の持ち味を活かしたことや、自己の情熱をそそぐことができるようなことに打ち込むほうがよいのです。

『「慈しみ」は、社会で一般的に知られている「愛」とは異なります。無条件のやさしさであり、そこに裏の動機はありません』バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ

無条件のやさしさというのは、見返りを求めないで人にやさしくする、ということです。

やさしくする相手に見返りを求めないような慈しみを実践することは、簡単なことではありません。

慈しみといっても、他者に向けられるようなやさしさだけではありません。自己を慈しむことができなければ、まわりの人々を慈しむような心の余裕をもつことも、難しいこととなってしまいます。

もしも、他者の幸せを願うことと、自己の幸せを願うことが、同じようにおこなわれるならば、社会にも、慈しみを広げることができます。

そして、すべての生命にたいしても、慈しみの心を向けることができるのです。

【成長のことば】

『あたかも蛇が旧い皮を脱皮して捨てるようなものである』ブッダ

ブッダは、修行者のあり方を、蛇にたとえました。

世の中には、心を迷わせるものが、たくさんあります。さまざまな雑念が、われわれの心にとらわれを発生させて、ほんとうに自己が望んでいることさえも、わからないようにさせてしまいます。

しかし、ブッダは、いっさいのものは虚妄である、ということを説きました。

蛇は、皮を脱ぎ捨てることによって、新しい身体となります。

人間の体細胞も、また、毎日、古い細胞を捨てて、新しくなっています。いつも、最新の細胞で生きる、という代謝を、寿命まで、繰り返しているのです。脳の神経細胞も、昔は、年齢とともに少なくなる、といわれていましたけれども、いまでは、かならずしも、そうでないことがわかっています。

たとえば、瞑想は、脳の記憶力や情報処理をつかさどる、海馬の部分を大きくすることがわかっています。

そのように考えるならば、人間は、いつでも、成長して、変わることができる、と思えるようになります。たとえ高齢となっても、心がけしだいで、われわれは、脳の若さを保つことができるのです。

また、心についても、同じことを言うことができます。心の中にある迷いを手放すことによって、だんだんと、つらい思いが消えていきます。

ブッダのことばは、やはり、禅思想の王道といえます。

【まとめ】

禅には、長い歴史があります。数千年にわたって、インドから、中国を経由して、わが国にも伝えられました。

そして、わが国でも、千二百年のあいだで、独自の発展を遂げた禅思想をつくりあげてきました。そのあいだにも、たくさんの禅僧たちが、さまざまなことばを伝えました。

読者の皆様も、その中から、おのおの、お気に入りのことばを探してみるとよいと思います。

たとえば、私は、この記事ですでに挙げたことばのほかにも、カンフー俳優であった、ブルース・リーのことばなどを、マインドフルな心がまえのための指針としています。禅僧だけではなく、武道家や、茶道家などの中にも、禅の思想を学んでいる方々が多いのです。それほど、禅の精神は、東洋の文化とかかわりをもっていました。

そのように、禅は、仏教のほかにも、マインドフルネスなど、さまざまな分野に影響を与えつづけているのです。

英語では『禅』は『Zen』とよばれています。インドのことばでなければ、中国読みでもない、日本の『禅』という発音が、世界共通の、マインドフルネスに関係した文化をあらわすものとなっています。私は、日本という『禅の国』の文化にふれながら生活していることは、恵まれていることだ、と思うのです。

kunitada
執筆者

『文化的なことを記事にする』という目的をもって、ライターをしています。2021年に、マインドフルネススペシャリスト資格を取得。その時期のご縁から、マインドフルネスや心理学について執筆する機会をいただくこととなりました。ふだんは、美術や文学についての文章も書いています。

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