ストレスに耐える心をつくるために、マインドフルネスを学ぼうとしている方々が増えています。
しかし、それにもかかわらず、効果を実感することができない、という感想も多く見られます。
この文章では、マインドフルネスの効果が出ない場合は、どのようなことが原因となっているのか、ということについて説明します。
そして、できるだけ実際のマインドフルネスの考え方をもととして、効果が出ない原因を解消するための方法を提案します。
【マインドフルネスを非科学的だと思っている場合】
効果を実感することができない、ということの原因について『マインドフルネスに疑いをもっているからだ』といわれることがあります。瞑想が仏教からきた方法である、というだけで、胡散臭いなどと思うから、よけいにうまくいかなくなる、というのです。
しかし、瞑想というのは、どうしても、非科学的なイメージがつきまとうものです。
そのような誤解を解くことは難しいのですから『疑いを捨ててください』などと言われても、すんなりと納得してもらうことはできないと思います。
なぜ、そのような疑いがおこるのか、ということを考えるならば、やはり、瞑想が非科学的なものだと思われていることが、その理由です。
ほんとうに疑いを解くためには『マインドフルネスは、心理学者のあいだで本格的に研究されている』ということを理解していただく必要があります。宗教の修行で瞑想が実践されてきた流れとは異なり、現代では、マインドフルネスにも、科学的根拠が認められています。
むしろ、現代のマインドフルネスは、信仰とは関係なく、ビジネスや、精神医療で瞑想を活用しようとする傾向のほうが強いです。とくに、アメリカの研究者には、瞑想と宗教を別のこととして考える傾向が強い、といわれています。
科学的に、瞑想の効果は、どのように実証されているのか、ということを示すのは、心理学や神経科学などといった分野の研究です。コンピューターを使った、脳の画像診断や、臨床における瞑想の活用によって、瞑想が脳にもたらすポジティブな効果がわかっています。
マインドフルネスの実践は、大脳の注意力を高める部位である、前部帯状回皮質(ACC)や、感情のコントロールにかかわる前頭前野などを活性化させます。雑念とかかわっているデフォルトモード・ネットワーク(DMN)も、マインドフルネスの実践によって、統合されます。
また、瞑想を続けることによって、自己を一歩引いたかかわり方で捉える能力が発達します。
そして、脳は、訓練をすることによって、その構造そのものがポジティブな方向に変化します。マインドフルネスの実践を継続することができるようになれば、記憶力にかかわる部位である、海馬が大きくなることがわかっています。
だから、瞑想を非科学的なものだと考えて、その効果を疑うことは、古いものの見かたによって植えつけられた、偏見であるとさえ言うことができます。
『東洋の宗教で伝えられてきた瞑想が、実際には、科学的にも理にかなった方法だった』ということを理解することができるならば、瞑想にたいするまちがった先入観を捨てて、その効果を信じていただくこともできると思います。
それでも、宗教的なことにたいする抵抗感があるならば、ふだんおこなっている呼吸に意識を向けるだけでも、試してみるとよいです。
【目的を意識しすぎる場合】
瞑想について、誤解されることが多いことの一つは『瞑想は、心を鍛えるという目的のためにおこなうものだ』という先入観です。もともと、禅の修行法であった、ということも、このような誤解をおこす理由かもしれません。
しかし、瞑想は、ある目的をもっておこなうものではありません。
ただ、座って、自己の内面や、目の前に起こる感覚に意識を集中させることが肝要です。
鎌倉時代に、中国から日本に帰国して、禅を伝えた、道元の著作のうちの一つに《普勘坐禅儀》という文章があります。《普勘坐禅儀》は、坐禅についての心がまえについて語ったものです。
その文章の中で、道元は『作仏を図ること莫かれ』と述べています。『坐禅をして仏となろうなどとと思ってはならない』ということを、坐禅の心がまえとして、説いているのです。
坐禅というのは、そのような目的のためにするのではありません。なにかを目指すのではなく、本来の自己をあきらかにすることが禅である、ということが本質です。道元は、そのような心得のちがいがあるだけでも、天と地ほどの隔たりがある、と警告しています。
この『作仏すること莫かれ』ということをマインドフルネスの瞑想に置き換えるならば、『瞑想をするときに、目的を意識しすぎることは、かえって自己の内面に集中することができないようにしてしまう』という意味となります。
マインドフルネスを精神医療に導入した、ジョン・カバットジンも、また、道元と同じようなことを述べています。カバットジンは、マインドフルネスの基本的な態度のうちの一つに『むやみに努力しないこと』を挙げています。彼は、瞑想の目的は『何もしないこと』である、とさえ述べています。
しかし『何もしない』ということに、価値がないわけではありません。
逆に、何もしないときのほうが、自己が存在していることを、しっかりと感じることができます。瞑想というのは、あらゆる目的にとらわれないで、自己の存在だけを感じるための時間をつくることなのです。
マインドフルネスは、瞑想そのものではありません。マインドフルネスというのは『ありのままの、今という瞬間に集中している状態』のことです。
そのような、基本的な考え方であればあるほど、誤解されている、という場合は、多いのです。
ありのままの自己にたいする気づきは、ただ自己が存在していることに意識を向けることによって発生するのです。現代人は、いろいろな目的に追われるような生活をしていますけれども、それらの目的にとらわれない時間が、1日のうち10分くらいあるだけで、心に余裕ができます。
だから、瞑想の時間を長めに確保すればよい、ということはありません。
また、毎日、瞑想をしなければならない、と思っておられる場合も、そのように考える必要はありません。
【イメージに没頭する場合】
瞑想をしているときさえも、雑念が浮かんできてしまうことはあります。
アメリカにあるいくつかの大学で臨床催眠学を研究していた心理学者である、大谷彰によれば、マインドフルネスの集中状態と、催眠状態は、表裏一体です。気づきが失われた状態で瞑想をしつづけているときには、心は、マインドフルな状態ではなく、催眠に近いようなトランス状態となってしまいます。
重要なことは、マインドフルネスは、リラクゼーションとは異なる、ということです。
瞑想は、気づきを保つための訓練としておこなわれるものです。瞑想のリラックス効果が強調されてしまうならば、それは、マインドフルな心のあり方を正確にあらわしたものではありません。
もちろん、瞑想をしているときには、心身によけいな力が入らないようにします。
しかし、そのときでも、意識は、ありのままの、呼吸や、自己の内面などに向けることが、正しいマインドフルネス瞑想です。
【複数の瞑想法をいっぺんに実践しようとする場合】
マインドフルネスのプログラムで推奨されているような瞑想には、坐禅のほかにも、歩行瞑想やヨガなどといった、さまざまな方法があります。
また、瞑想に慣れたあとには、生活の動作を瞑想のようにおこなうこともできます。たとえば、掃除や食器洗いなどといった、ひとつの動作に集中力を向けることができるようなことならば、どのようなものでも、瞑想とすることができるのです。
しかし、それらのすべてをいっぺんにはじめようとしても、うまくいくわけではありません。
お寺で修行をする僧侶の方々のように、毎日、きめられた時間に坐禅や歩行瞑想にうちこむことは、われわれにとって、簡単にできることではありません。俗世間で生活をしている、われわれは、タスクに追われながら、うまく自己管理をすることによって、空き時間をつくります。その、自己管理というのも、言うは易し、おこなうは難し、というものです。
もしも、1日のうちに、複数の瞑想法を実践する時間がなければ、無理をしなくてもよいです。
時間がないせいで、瞑想をすることができないような日は、あるだろうと思います。
しかし、そのような日でも、ほかのことに集中することはできます。『今日は、瞑想をしなかった』ということで罪悪感を抱く必要はありません。
むしろ、無理をして、さまざまな瞑想法を1 日のスケジュールに詰め込みすぎてしまうことは、逆効果となってしまいます。おのおのの生活で実践することができるような頻度で取り組むことが、長続きする秘訣です。
私は、マインドフルネスを学びはじめた時期には、その『継続させる』ということに悩みました。
もともと、習慣を長続きさせることが苦手だったため、私は、毎日実践することをあきらめました。
そのかわりに、とても大ざっぱな目標を定めました。その目標は『1日のうち5分以上のマインドフルネス瞑想を、週5日以上おこなう』というものです。もちろん、これは、最低限の目標です。5分よりも長くおこなってもよいと思うことができるような日には、45分の静坐瞑想(坐禅)をおこなうこともあります。
マインドフルネスのほんとうの意義である『ありのままの自己』を回復するためには、無理をしないことも大切です。お寺の修行者さえも、1日じゅう、ずっと坐禅を組んでいるわけではありません。瞑想に時間を奪われて、ほかのことに使う時間がなくなってしまうならば、本末顛倒となってしまいます。
ひとつ前の部分で、私は『目的を意識しすぎない』ということを述べました。
瞑想の頻度についても、それと同じ考え方をすることができます。ゆるい目標で瞑想に取り組んだほうが、よけいな心のとらわれがなくなるのです。
【マインドフルネスでは対処できないような精神疾患の場合】
精神疾患を治療するためにマインドフルネスをおこなう場合があります。うつ病や、統合失調症、不安障害などといった症状は、マインドフルネスを実践することよって改善することができるものです。
また、疼痛の痛みを和らげたり、薬物依存の治療をするときさえも、マインドフルネスが応用されることがあります。
しかし、マインドフルネスは、万能な治療法というわけではありません。一見すると、瞑想をすれば心の問題が解決する、というのは便利な方法であるように見えても、やはり、すべての症状に効果があるわけではありません。
むしろ、瞑想によって症状がよけいにひどくなってしまったようなケースもありました。
先ほど名前を挙げた、大谷博士は、ある患者にふつうのマインドフルネスの効果がなかったときのエピソードを解説しています。その患者が下腹部の疼痛に加えて、うつ病と不安障害をかかえているときに、マインドフルネスを実践してもらいました。
患者は、マインドフルネスをおこなってからすぐにうめきはじめたため、博士の判断で、『時計の針の音に気づきを変換する』という瞑想をおこなうように提案されました。
そして、患者が、そのとおりに、時計の音に集中したあとには、不安感がなくなったのです。
この症例は、マインドフルネスにおける気づきが、実践者を圧倒してしまうことの危険性を教えてくれます。
もちろん、精神的に大きな問題をかかえていない人は、気づきに圧倒される、などという事態に陥ることはありません。
マインドフルネスが危険なものとなるのは、ストレスにたいする耐性が低い方々が実践する場合です。ストレスにうまく対処する能力(コーピング能力)は、マインドフルネスの副作用があらわれるか、否かを決定づける要素です。
しかし、そうは言っても、マインドフルネスじたいが、そのような、ストレスに弱い人のためにあるような対処方法である、ということも事実です。セラピストの誘導にしたがいながら、うまくストレスを受け止めて手放す、という感覚を学ぶことが、無難な治療法となります。
たとえ、自己の心がストレスに弱いと感じているのだとしても、ストレスに耐えることができるように成長すればよいのです。そのための訓練は、いつから始めても、遅いということはありません。
【まとめ】
ひとくちに『効果が出ない』といっても、その理由として、さまざまな要因があります。
実践者が心の内面にかかえている問題や、マインドフルネスにたいする誤解は、うまく集中状態に入ることができないことの原因となります。
また、瞑想によってマインドフルな状態に入るための時間や空間を、うまく確保することも重要です。たとえば、複数の瞑想法をスケジューリングしすぎないことについては、すでに述べました。空間的なことでは、騒音のない場所や、清浄な空間を選ぶことが、瞑想の前提となります。
禅やマインドフルネスの基本的な思想を深く理解することができれば、おのずから、それらの条件が整ってきます。
コメント