マインドフルネス瞑想のうち、他者にやさしさを向ける、という瞑想があります。
それは、慈悲の瞑想とよばれています。
ふつう、瞑想というのは、自己の内面を観察する方法だと思われていますけれども、慈悲の瞑想は、自己だけではなく、他者のことも大切に想う、という部分が異なります。
慈しみの感情を、自己と他者に向けるのです。
この文章では、慈悲の瞑想をおこなうことによる効果や、慈しみを向けやすくするためのポイントについて述べようと思います。
マインドフルネスにおける慈しみ
マインドフルネスの実践では、静坐瞑想(坐禅)などといった、禅の瞑想法を活用します。
集中力や注意力を高めることによって、全体的な生き方に気づくことを目的としているのです。
しかし、瞑想というのは、ただ、自己の内面を観るだけではありません。
慈悲の瞑想は、慈しみを人に向ける瞑想です。
あらゆる人々が幸せであるように願う、という瞑想です。
『慈悲』ということばを《明鏡国語辞典》で引くと『①仏教で、仏・菩薩が衆生をあわれみ、楽を与え、苦を除くこと』『②いつくしみ、あわれむこと。
情け』という説明文があります。
『慈しみ』は『いつくしみ』と訓読みすることができますから、慈悲の瞑想というのは、仏のようなこころで、あらゆる人々に慈しみを与えるための瞑想だ、ということとなります。
スリランカ出身のマインドフルネス研究者である、バンテ・ヘーネポラ・グナラタナは《慈悲の瞑想――慈しみの心》という本を著しています。
彼は、慈しみというのは『無条件のやさしさ』である、という説明をしています。
見返りを求めないやさしさが、慈しみだ、ということです。
われわれは、他者に親切さを示すときに、見返りを求めてしまうことがあります。
もちろん、相手にやさしくしたにもかかわらず、その相手から感謝されることさえもないような場合には、いやな気分となるものです。
やさしくしてあげた相手ならば、それに見合ったやさしさで返してくれなければ、損をしたような感じを受けるかもしれません。
そのように、世間で『愛』といわれているやさしさは、憎しみに変わることがあります。
しかし、グナラタナは『愛が状況によって変わるなら、それは真の愛――慈しみ――ではありません』といいます。
慈しみは、憎しみに変わることは、ありません。
たとえ、相手から感謝されなかったとしても、その行為の動機が慈しみであるならば、怒りが湧くこともありません。
だから、慈悲の瞑想をおこなうならば、おのずから、こころが穏やかになるのです。
慈悲の瞑想
慈悲の瞑想は『自己の幸せを願う』『親しい人の幸せを願う』『中立的な人(好きでも嫌いでもない人)の幸せを願う』『嫌いな人や、自己を嫌っている人の幸せを願う』『生きとし生けるものの幸せを願う』というプロセスで実践します。
このプロセスを、およそ10分間おこなうだけで、リラックス効果があります。
まず、慈しみを自己の内部にむけます。
そして、自己の幸せを願うことばとして「私が、健康で、安穏で、幸せでありますように」ということばを唱えます。
つぎに、その慈しみを、自己の外にもむけます。
親しい人(家族や親戚、友人など)を思い浮かべながら「私の親しい人が、健康で、安穏で、幸せでありますように」と唱えます。
そのあとも、同じように、好きでも嫌いでもない人を思い浮かべて「好きでも嫌いでもない中立的な人が、健康で、安穏で、幸せでありますように」と唱えます。
さらに『嫌いな人や、自己を嫌っている人の幸せを願う』ことは、難しいと思う場合には、おこなわなくてもよいです。
事実、嫌いな人のことを思い浮かべることじたいが、ストレスとなるものです。
私も、最近まで、それができませんでした。
この嫌悪感を克服するためには、どうすればいいのか、ということについては、あとで述べます。
はじめて慈悲の瞑想をおこなう方々は、たとえ「嫌いな人が幸せでありますように」と唱えることができなくても、自己を責めないことが大切です。
できれば、挑戦してみたほうがよいですけれども、最初は、そこまで高い目標をもたなくてもよいです。
最後は、宇宙全体を想像しながら「生きとし生けるものが、健康で、安穏で、幸せでありますように」と唱えます。
あらゆる方角に向けて、すべての生命にたいして、慈しみを広げるのです。
慈しみの経典《慈経》
ブッダは、あるとき、慈しみのこころと、慈悲の瞑想を実践する方法について説いたといわれています。
そのときの、ブッダの言説をまとめた仏教の経典は《慈経(メッタ・スッタ)》という題名で知られています。
《慈経》は、上座部仏教のなかでも、重要性が高い経典として支持をうけています。
グナラタナが紹介している慈悲の瞑想も、また《慈経》の中で推奨されているものと同じ方法です。
今回の記事で紹介している慈悲の瞑想は《慈経》の中で説明されている方法を、簡単にしたものです。
『もっと、じっくりと慈悲の瞑想に取り組みたい』という思いが湧いてきた場合には、訳書や解説書を読みながら実践するとよいです。
【自己にたいする慈しみ】
他者に慈しみを向けることができるようになるためには、まず、自己にたいする慈しみを育てることが近道です。
慈悲の瞑想は、自己の幸せを願うことからはじまります。
そして、自己にたいする慈しみを感じることができるようになったあとに、その慈しみを、自己の外にも向けるです。
精神科医であった、ジョン・カバットジンは、慈悲の瞑想について『癒しのエネルギーは、あなた自身の身体だけではなく、ほかの人びとや人間関係にも向けることができます』と述べています。
彼によれば、癒しの体験は『自己の存在感に深く入りこむ』ということによってもたらされます。
瞑想というトレーニングは、自己が一つの全体である、ということに気づかせてくれます。
自己の全体性を感じとることが『自己の存在感に深く入りこむ』ということなのです。
地球や、宇宙が、それぞれ一つの全体であることと同じように、われわれの、自己という存在も、また、一つの全体です。
だから、もしも、全体的な生き方を取りもどすことができたからば、おのずから、自己のトラウマは、癒しに向かうようになります。
自己にたいして慈しみを向けやすいようにするためには、瞑想にたいする目的意識をもたないようにするとよいです。
もちろん、瞑想の体験をつうじて、自己を変えようとする態度は、あってもよいものです。
しかし、最初から高い目的意識で挑戦しようとするならば、少しうまくいかなかっただけで自己を責めてしまう、という危険があります。
『嫌いな人の幸せを願うことができない』というだけで、慈悲の瞑想そのものをあきらめたいと思うようになってしまうならば、実践することそのものが、かえって逆効果となってしまいます。
自己を癒すことが、最優先なのです。
他者にたいする慈しみ
仏教には『自利利他』ということばがあります。
『自利利他』というのは、自己の幸せと他者の幸せは切り離すことができない、ということです。
たとえば、自己の幸せを後回しにして、他者をよろこばせることを優先してしまうような人がいるかもしれません。
利他のこころにしたがって行動することは、立派なこころがけです。
しかし、自己よりも他者を優先しようとする行動ばかりしているならば、いつか、無理がわざわいするものです。
体力が追いつかなくなったり、こころの疲労が蓄積されてしまうかもしれません。
それを、自己犠牲とよぶこともできます。
だから、自己にたいする慈しみと、他者にたいする慈しみを、両方、育てる必要があるのです。
ほんとうに自己にたいする慈しみを実感できるようになるならば、自己の癒しを体験することができます。
そこで、問題となるのは、嫌いな人の幸せを願うためには、どうすればいいのか、ということです。
私が、嫌いな人を恨まなくなった契機は、静坐瞑想を続けてから、二年ほど経ったころでした。
静坐瞑想では、結跏趺坐あるいは半跏趺坐の座り方で、腹式呼吸をしながら、雑念を減らします。
よけいな考えや、ネガティブな思いを捨てるための瞑想として、静坐瞑想は、有効です。
その途中で、どうしても、雑念が湧いてくることがあります。
そのようなときには、雑念を手放すための対処法として、イメージを利用した方法を使うことによって、無心な状態に戻りやすいようにすることができます。
まず、一枚の葉っぱに、一つの雑念を乗せる様子をイメージします。
そして、その葉っぱが、川の上を流れていく様子をイメージしてから、ふたたび静坐瞑想の呼吸に意識を戻すのです。
この方法で、静坐瞑想に集中することができるようになれば、徐々に、トラウマが減っていきます。
たとえ、だれかに傷つけられた体験があったとしても、静坐瞑想を続けているうちに、そのストレスは、軽くなっていきます。
また、この、雑念を減らす過程は、神経科学でも、解明されています。
静坐瞑想を継続しているうちに、脳の雑念をつかさどる、デフォルトモードネットワーク(DMN)のはたらきが抑制されるようになるのです。
だから、マインドフルネスの基本的な瞑想法である、静坐瞑想の効果が深まれば、おのずから、他者の嫌いな部分のことは、気にならなくなります。
そして、嫌いな人に慈しみを向けることも、できるようになるのです。
しかし、それでも解決することができないほど対人関係の悩みがある場合には、カウンセラーやセラピストに相談することも考えたほうがよいかもしれません。
近年は、マインドフルネスを精神医療のために導入しているカウンセラーは、増えています。
もしも、瞑想のやり方がまちがっているような場合や、そのほかにトラウマの原因があるような場合には、専門家から指導を受けながら、正しいやり方で瞑想をするほうが、うまくいきます。
生命にたいする慈しみ
この世に存在する、すべての生命が、区別のない全体だと考えるならば、慈しみを、東西南北と上下という、あらゆる方角に向けることができます。
生命そのものにたいする慈しみについて、気をつけるべきポイントは「目に見える生命」と「目に見えない生命」という両方を意識する、ということです。
自己にとって、見ることができないような遠くにいる生命を思うためには、努力が必要となります。
われわれは、親しい人々の幸せを願うことは簡単にできますけれども、そうでない人々の幸せには、あまり興味をもつことがないように思われます。
また、どのような生命も殺さないことを意識する、ということも、重要です。
慈悲の瞑想は、このような、生命をもった存在である、われわれの生き方にもかかわる瞑想なのです。
慈しみを実践する
『マインドフルネスを実践している人は、利己的になりやすい』という意見を聞くことがあります。
ニューヨーク州立大学がおこなった実験で、個人主義的な考え方をもっている人々にマインドフルネス瞑想を実践させたあと、その人々は、個人主義的な傾向が強くなってしまう、という研究結果があります。
具体的には、ボランティアなどといった、他者のために時間を使うことに消極的となる、というあらわれ方をするのです。
しかし、この実験では、個人主義の逆である、相互依存的な考え方をもつ方々は、まったく異なる結果があらわれています。
もともと、個人主義的ではないと判断された方々は、マインドフルネスの実践をつうじて、より寛大な傾向が強くなったのです。
マインドフルネス自体は、利己的な目的のためにあるのでは、ありません。
もしも、慈悲の瞑想について知識があるならば、マインドフルネスが利己心を助長するものではない、ということが理解できるだろうと思われます。
そのことから、マインドフルネスの実践者が、個人主義に陥らないためには、慈悲の瞑想を、ほかの瞑想法と同じくらい重要視することが大切だといえます。
呼吸瞑想や、静坐瞑想、ボディー・スキャンといった方法では、自己の内面や身体にたいする気づきを訓練します。
それと同時に、慈悲の瞑想も実践しながら、他者の幸せを願うこころを養うのです。
もちろん、一日のうちに、すべての瞑想をこなすことは難しいですから、たとえば、慈悲の瞑想をおこなう曜日を決めておく、などといった計画を立てておくとよいです。
そして、慈しみのこころで動くことも、また、自己の生命と、ほかの生命が、ともに幸せを感じるためには、重要なことです。
『私たちがおこなう行動は、他の生命に影響を与えます』と、グナラタナは説いています。
だから、慈悲の瞑想を人生に活用しようとするときには、慈しみのこころで『聞く』『話す』『行動する』ということが要求されることとなります。
慈悲のこころで『聞く』というのは、他者の悩みを聞くことです。
慈悲のこころで『話す』というのは、相手の苦しみを和らげるようなことばをかける、ということです。
そして、慈しみのこころで『行動する』というのは、意識的に、他者を助けるように行動をする、ということです。
まとめ
慈しみのこころは、ただ、他者のためのものではありません。
日常生活で慈しみを意識的に思いながら、おこなうことによって、自己の内面を清浄にすることができるのです。
仏教には『無畏施』ということばがあります。
『無畏施』というのは、財産を使わなくても実践することができる親切のことです。
たとえば、和やかな笑顔を人に向けることや、よい言葉を話す、そして、席を譲る、といったことが『無畏施』に含まれています。
もしも、日常生活という範囲で考えるならば、人にやさしくするために、簡単にできることは、あります。
無条件の慈しみによって、皆が幸せを感じることができるのです。
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