人間ならば、だれでも、怒りの感情を抱いてしまうことがあります。
しかし、怒っている状態をそのまま継続させているならば、さまざまなことに不利益がつきまとう悪循環となってしまいます。
怒りは、ただ自己にとって気分が乱れるだけではありません。
周囲の人々から見ても、怒っている人は、その人の近くにわずらわしい雰囲気を拡散させているように見えるものです。
マインドフルネスの訓練をしつづけることによって、怒りが発生する脳をコントロールすることができます。
瞑想などの方法を活用することによって、怒りが湧いてくる心を冷静に観察することができるようになるのです。
この文章では、マインドフルネスで怒りをコントロールする方法や、その考え方について説明しようと思います。
怒りとマインドフルネス
昔から、自己の怒りをコントロールすることは、心を安定させるための課題とされていました。
たとえば、ブッダが説いたことばを集めた経典である《スッタニパータ》では『破滅の門』という章があります。
『破滅の門』では、人間のさまざまな破滅的な性格が挙げられています。
その章の中で、ブッダは、怒りっぽい人を、第三の『破滅の門』であると述べています。
怒りっぽい人は、みずから幸福となることを拒絶しているようなものなのです。
幸福を得るためには、怒りが破滅をもたらすことを知りながら、破滅のない生き方を選ぶことが重要だ、ということをブッダは説いたのです。
ブッダのほかにも、さまざまな僧侶の方々が、怒りをなくすための考え方について説明しています。
たとえば、スリランカの上座部仏教長老であるアルボムッレ・スマナサーラは『怒りが生まれると同時に、怒りは自分を壊し始めている』と述べています。
怒りの感情は他者に迷惑をかけるだけではなく、それよりもさきに、怒りが自己の身体を老化させてしまうのです。
事実として、胃潰瘍や、がんなどのように、ストレスが原因となって発症する病気がある、ということは、よく知られています。
怒りを直そうとしないでいることによって、損をするのは、その人自身なのです。
ブッダのような、紀元前のインドに生を受けた人さえも、怒りが自己を破滅させる、ということを知っていました。
おそらく、人間にたいする観察や経験から、怒りが危険であるという事実を学んでいたのだろうと思います。
伝統的な仏教の瞑想は、情動をコントロールするための訓練として、僧侶の方々に受け継がれながら実践されています。
また、神経科学の観点でも、マインドフルネスが怒りを抑制する効果が解明されています。
マインドフルネスの効果には、ただ宗教的な修行法というだけではなく、科学的な根拠もあるのです。
このことについては、あとで説明します。
怒りの状態
怒りの感情を科学的な観点から考えるならば、感情というのは、脳波や、脳神経で伝達されているような化学物質とかかわっている、ということがわかります。
人の脳波は、怒っているときには、ガンマ波という波形となります。
ガンマ波の状態は、かならずしもよくない脳波とはいえないのですけれども、こころが落ち着いた状態で集中力を発揮するためには、ガンマ波は十分な状態ではありません。
むしろ、集中力と深くかかわっているのは、アルファ波とシータ波です。
脳をシータ波の状態のほうが、より安定した集中力となるのです。
また、怒りは、ノルアドレナリンが過剰に分泌された状態です。
この状態は、ストレスを司る脳の部位である、扁桃体の活動が過剰となることが原因となっておこります。
もちろん、怒りの原因には、他者から気分を害するような発言やふるまいをされたこともあります。
自己の外部から刺激を受ける、ということが、扁桃体の活動に影響を与えるのです。
また、われわれは、一瞬のあいだに怒りの感情に支配されてしまうこともあります。
緊急事態に遭遇するとき、扁桃体は、脳のほかの神経に強力な指令を出します。
感情が、いっぺんに脳の全体を制圧するのです。
ダニエル・ゴールマンは、この状態を『情動のハイジャック』とよんでいます。
われわれは、なにかの契機で、すぐに、怒りを感じてしまうことがあります。
そして、そのことも、また、脳の構造とかかわっています。
扁桃体には、嗅覚以外の五感をつかさどる視床と直接繋がっている神経の束があります。
視床から直通のルートをもっているため、扁桃体は、眼からすぐに情報を受け取るのです。
そのようなことから、人間の脳がどれほど感情に流されやすいのか、ということがわかってきます。
しかし、そのような脳をもっているにもかかわらず、怒りの反応を見せない人々もいます。
過剰にもつ必要のない怒りをもたないようにすることは、できるのです。
悪口を言われたときに、そのときに言われたことにたいして怒りをもちつづける人がいる一方で、そのようなことを気にせずに、気分を切り替えることができるような人もいるのです。
たとえ外部の影響があったとしても、その状況にたいする反応は、個人差があります。
スマナサーラは『怒るか否かは個人の人格の問題です』と述べています。
頻繁に怒る人は、エゴやプライドが強いという傾向があります。
われわれは『私はこれをやるべきだ』などといった自我の思考にとらわれてしまうことがあります。
自我を固定概念のように信じてしまうことが、エゴなのです。
自己の立場を根拠として、意識しているかしていないかにかかわらず『私は正しい』と思いこんでしまうのです。
そして、エゴは妄想概念を生み出します。
「あの人は私をののしった」とか「あの人は私を負かした」などといった妄想を繰り返していまうのです。
もちろん、実際に被害を受けた場合はありますけれども、いつまでも覚えているならば、そのことが、ずっと怒りをもったままの状態を維持してしまいます。
ひとつの見方だけにとらわれてしまうならば、生きることの喜びさえもわからなくなってしまいます。
この状態は、気分がよくないことに加えて、判断力を低下させます。
怒りを感じるようなことばかりではなく、喜びに目を向けるようにしたほうがよいのです。
怒りをコントロールする瞑想
神経科学における研究では、マインドフルネスを実践することによって、扁桃体の活動が抑制される、ということがわかっています。
また、瞑想は、脳波をアルファ波からシータ波にまたがる集中状態にしてくれます。
怒りを抑える効果が期待される瞑想には、つぎのようなものがあります。
①慈悲の瞑想
慈悲の瞑想は、他者にたいする慈しみを育む瞑想です。
怒りは、他者にたいする思いですから、怒りを鎮めるためにもっとも効果的な瞑想は、慈悲の瞑想であるといえます。
慈悲の瞑想でおこなうことは、他者の幸福を願うことです。
ヨガのように、特別な座り方で座る必要はありません。
『自己の幸せを願う』『親しい人の幸せを願う』『中立的な人(好きでも嫌いでもない人)の幸せを願う』『嫌いな人や、自己を嫌っている人の幸せを願う』『生きとし生けるものの幸せを願う』というプロセスで実践します。
そして嫌いな人の幸福を願うことができるならば、怒りも湧きにくくなります。
まず、慈しみを自己の内部にむけます。
そして「私が、健康で、安穏で、幸せでありますように」ということばを唱えます。
つぎに、その慈しみを、自己の外にもむけます。
親しい人(家族や親戚、友人など)を思い浮かべながら「私の親しい人が、健康で、安穏で、幸せでありますように」と唱えます。
そのあとも、同じように、好きでも嫌いでもない人を思い浮かべて「好きでも嫌いでもない中立的な人が、健康で、安穏で、幸せでありますように」と唱えます。
さらに、もしも『嫌いな人や、自己を嫌っている人の幸せを願う』ということができると思うならば「嫌いな人や、私を嫌っている人が、健康で、安穏で、幸せでありますように」と唱えます。
嫌いな人の幸せを願うことが難しい場合には、唱えなくてもよいです。
そのあと、生きとし生けるものすべてにも、同じように、慈しみのことばを唱えます。
これらのプロセスを、およそ10分間おこないます。
②呼吸瞑想
慈悲の瞑想は効果的ですけれども、まずは、もっと基本的な瞑想を習得したほうがその効果は向上します。
なぜなら、怒りは、他者にたいする怒りであるよりも先に、自己の心の内面に根を張っているものだからです。
呼吸瞑想は、マインドフルネスで推奨されている瞑想のうちでは、もっとも基礎となる瞑想です。
気分を落ち着かせるためには深呼吸をするとよい、といわれていますけれども、呼吸瞑想は、ただ深呼吸をするだけではありません。
呼吸瞑想では、呼吸を観察することによって、自己の存在にたいする気付きを生み出します。
いま、ここに存在していることに気づくことができるならば、自己の内部で動く感情を受け止めることができるようになります。
③静座瞑想(座禅)
呼吸瞑想と同じように、静座瞑想も、また、禅の瞑想法のうちでは基本となる方法です。
静坐瞑想では、右の腿の上に左足を乗せたあと左の腿の上に右足を乗せる座り方(結跏趺坐)で座るか、あるいは、右の腿の上に左足を乗せるだけでもう片方は胡座のようにする座り方(半跏趺坐)で座ります。
しかし、瞑想を始めるまえから機嫌を損ねてしまうことはよくありませんから、結跏趺坐や半跏趺坐の座り方が難しいと感じる場合には、胡座でもよいです。
座ったあと、上半身を回すなどして姿勢を安定させます。
安定したならば、背筋を伸ばして、呼吸に意識を向けます。
このとき、呼吸を数えながらおこなうならば、より集中しやすくなります。
雑念が湧いてきたときには、それに気づき、手放すようにします。
そして、ふたたび、呼吸に集中します。
怒りをコントロールする考え方
スマナサーラによれば、怒りの治め方は、ただ怒らないことです。
彼は『努力して怒りを抑えこむのではないのです。
自分の心の怒りに気づいたら、怒れなくなってしまうのです』と述べています。
それでは、怒りに気づいたら怒れなくなる、ということは、どのような意味でしょうか。
怒りの感情をもつことは、人間性を捨ててしまうことです。
もしも、たった一度怒るだけではなく、回数を重ねるならば、怒りは、そのたびに、われわれから人間性を失わせることとなります。
昔の心理学では、ネガティブな感情を吐き出すようなことをすること(カタルシス)が推奨されてきましたけれども、現在では、そのような方法は、あまり有効ではないといわれています。
カタルシスは、長期的に見るならば、怒りを増幅させることとなるのです。
しかし、怒りの非人間的な部分や、怒りの恐ろしさに気づくことができるならば、われわれは、怒るということそのものが愚かなことだ、と考えるようになります。
怒ることじたいが害であるということを知るならば、おのずから、怒らないようにしようと気をつけるようになるのです。
だから『怒ることは怖ろしいことだ』ということを自己に言い聞かせながら、その状態の自己に気づくことが大切です。
もっとも、理屈ではそのことをわかっていたとしても、実際に怒らないように自己をコントロールすることは、また別の問題であると思われるかもしれません。
ブッダは、怒りをコントロールすることを『蛇の毒が(身体に)ひろがるのを薬で制するように』というたとえで説明しています。
また、ブッダは、同じ節で、怒りを捨てる方法を『蛇が古い皮を脱皮する』ということにたとえています。
つまり、怒りが湧いてきたことに気づいたならば、それは消える、ということです。
心に湧いてきた怒りに気づくためには、自己を一歩引いた見方から見る、という視点をやしなうことが大切です。
その能力は、心理学においては、脱中心化とよばれています。
情動をコントロールする考え方というのは、自己の判断や思考から離れて、それらを俯瞰した観点をもつ、ということです。
マインドフルネスを実践することによって、脱中心化の能力をそだてることができます。
呼吸瞑想で呼吸以外のことを考えない訓練をすることや、静座瞑想でストレスを手放す過程は、自己の心を脱中心化の視点から見ることと同じです。
脱中心化をつかさどる脳の部位は、側頭頭頂接合部です。
この部位がうまくはたらいているならば、不快な体験を一時的なこととして捉えることができます。
マインドフルネスでは、側頭頭頂接合部が活性化するのです。
しかし、そのほかにも、脱中心化の訓練をするための、簡単な方法があります。
たとえば、なにかネガティブな思考が思い浮かんだときに、自己の頭で考えたことばのあとに『……と考えた』という付け足しをすることが有効です。
「あの人が許せない」といった思考のあとに『……と考えた』というひとことをつけるだけで、自己の考えを一歩引いた状態(脱中心化)に誘導することができます。
まとめ
マインドフルネス瞑想は、脱中心化という観点をもたせてくれる訓練です。
自己を客観的に見ることによって、エゴにとらわれない脳の習慣ができます。
自己の怒りに気づくことができるならば、そのときには、怒ってはならない、と自戒することもできるのです。
とくに、慈悲の瞑想は、他者にたいする思いやりを育むという情動的な瞑想です。
心が怒りにとらわれている状態は、正しい判断力を保つことができない状態です。
しかし、人生は、怒りだけではありません。
他者に腹を立てるのではなく、喜びを感じることを発見するようにすることが、心の健康を増すのです。
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