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番外編その2.エヴァンゲリオンから黒き月を考察!純粋性を知るためにはまず闇を潜ることが必須?!

「初心者が最初に巡り会いたい『深楽しい』西洋占星術講座」にようこそ!

いつも記事を読んでいただきまして、本当にありがとうございます。

今回の記事は、「エヴァンゲリオン」シリーズで描写される「黒き月(リリス)」を題材として、月の理解を進める内容にしていきたいと思います。

エヴァンゲリオンは、中学生(14歳)の少年少女の決断と行動が世界に強い影響を与える、いわゆる「世界系」の物語です。

占星術には、「年齢領域」があり、14歳は水星期に相当します。

本講座で繰り返しお伝えしてきたように、水星は男性天体でも女性天体でもなく、また、昼の天体でも夜の天体でもなく、その時の状況に引っ張られるように、その働きを変える天体です。

幼少期~思春期において、外部環境に強く影響されることで、私たちは自分の意志や気持ちに関係なく引き起こされる人生(現実)を体験します。

私たちがそれぞれの価値観や価値基準を持つことになった理由は、体験的な記憶や感情、意識が内面に独自の信念体系を形成するからです。

エヴァンゲリオンは心理学的な要素を多く持ち、「無意識」や「母胎回帰」、「トラウマ」、「心の底に眠っている欲求」などが持つ美しさやグロテスクさを余すところなく表現している作品です。

そんなエヴァンゲリオンの物語には、一度聞いただけでは意図が分からない用語や表現が散りばめられ、ユダヤ・キリスト教の価値観や歴史、カバラなどの西洋文化と日本の歴史や価値観が融合されています。

エヴァンゲリオンには、直接的な占星術のシンボルや表現は出てきませんが、唯一「リリス」という存在が登場します。

セーラームーンのように、ただ「月」という言葉ではなく、「白き月」と「黒き月」と明確な用語を使い、視聴者や読者に、「私たちが生きる意味」や「私たちの無意識にある望み」について問いかけをする作品が、エヴァンゲリオンです。

どのような物語でも、最終的に印象や思い入れを抱くのは読者や視聴者ですが、作品の物語に通っている「志」や「メッセージ(意図)」は、普遍的なものでなければ、多くの支持を集めることも、高い評価も受けることもないでしょう。

セーラームーンが「表の心」や「純粋な願い」をストレートに表現した物語とするならば、エヴァンゲリオンは、「心の奥」や「誰にも知られたくない望み」を婉曲的に描いた物語と言えるかもしれません。

作品の制作工程から表現方法、打ち出しているイメージが正反対にも関わらず、どちらの作品も「融解」や「統合」、「一体化」などの表現が一致しています。

その理由は、2つの異なる物語が、冥王星の蠍座時代に生まれたからかもしれません。

今回は、エヴァンゲリオンシリーズに登場する「リリス(黒き月)」を題材に、暗く、深く、そして、「暴虐性」や「残虐性」という誰にも見られたくない「闇=黒き月=リリス」について考察を深めることで、月についての理解を深めていきたいと思います。

私たちは、私たちの人生と現実が、「意識(顕在意識)」が「無意識」の働きを現実化させている、という事実をそれほど自覚していません。

だからこそ、私たちは「思わぬ事態」や「想定外の出来事」といった意に沿わない現実を体験する度に面食らってしまいます。

「これが私が望んだ現実なわけがない…!!」と誰もがそう思うのです。

もし、私たちに「リリス=黒き月」が宿っていなければ、単なる「望み」や「願い」といった純粋な心のままに生きていたかもしれません。

ですが、「心=月」が光を輝かせる闇としての役割・立場を全うするためには、「原初の闇」が必要不可欠です。

心理学で使われる「原型=アーキタイプ」という用語は、私たちが集団的無意識で共有している概念や観念、価値観を表します。

今回の記事で扱う「黒き月(リリス)」は、人類が共有している「恐怖」や「闇」にまつわる「都合の悪い望み・願い」について解説していきます。

尚、今回の記事で扱う「黒き月(リリス)」は、「ブラックムーン・リリス」という月の遠地点である感受点を意味します。

ブラックムーン・リリスは、ホロスコープに表示させ、ハウスとサインを確認するだけでも意識が変わる、とされるほどの強い影響力を持つ月にまつわる感受点です。

今回はエヴァンゲリオンを題材に、少し「闇」に触れることになりますので、もし気分が優れない時や気が進まない時、また、途中で心が重たくなってしまう場合は、記事を読むことを中断してください。

マドモアゼル愛氏はかつて、「月のことを語ることで支障をきたす」というような発言をされていたことがあります。

筆者もまた、この記事を書くためだけでなく、「黒き月=深遠なる闇」に触れても問題ないように、たっぷりと時間を設け、書くべきタイミングを見計らって執筆をしました。

エヴァンゲリオンを作った庵野監督は、作品の「生みの親」ですので、作品を完成させるまでに相当の苦労をされてきたことは周知のとおりです。

今回の記事は、「月の理解」を深めることを成り立たせる上で、「闇(影)の肯定」を裏テーマとしています。

あなたがネイタルの月のハウスとサインへの理解を進める上で、突き止め切れていない「闇」を求めている場合は、是非今回の記事を参考にしてください。

前置きが長くなりましたが、今回も是非、最後までお付き合いくださいね!

尚、以下の記事は、ブラックムーン・リリスを解説した記事ですので、振り返りや復習にご活用ください!

冥王星の山羊座時代の到来と「円環的時間(ループ)」を巡る年月

前回解説したセーラームーンと同様に、エヴァンゲリオンは、冥王星の蠍座時代の最後の時期に連載・放映された作品です。

エヴァンゲリオンは、アニメシリーズが終了してからの方が人気が高く、関連作品が作られたり、リマスター作品が出されたり、あらゆる製品とのコラボ商品が販売されたりと、時間の経過とともに風化するのではなく、時代の流れとともに、視聴者や読者の意識に残り続けました。

そして、2021年に新劇場版の完結編が公開され、長きに渡って発展・変容し続けてきた物語に幕が下ろされました。

セーラームーンは、原作漫画からアニメや映画が作られましたが、エヴァンゲリオンは逆に、アニメシリーズが原作で、漫画や小説が作られたという点で、物語の世の中への普及の仕方・段階が大きく異なります。

また、セーラームーンがアニメ放映される際、視聴者層を考慮し、原作の物語や表現通りではなく、視覚的に分かりやすいものにされ、その後、セーラームーンCrystalシリーズで、原作に忠実な物語進行を辿った、という経緯があります。

一方、エヴァンゲリオンは、アニメシリーズが原作であるため、制作を放映日までに間に合わせることが非常に困難であるだけでなく、物語の終わり方には賛否両論があり、庵野監督は心身ともに疲弊してしまい、エヴァンゲリオンから距離を置く必要が出てきたと言います。

アニメシリーズの放映後、完全新作として、劇場版のエヴァンゲリオンで物語を完結させる予定でしたが実現することなく、「旧劇場版」の2作を制作・放映することになり、一旦はエヴァンゲリオンの物語は幕を閉じました。

しかし、庵野監督は、2006年に再びエヴァンゲリオンの物語を完結させることを発表し、2007年に「新劇場版ヱヴァンゲリヲン」シリーズが制作されることになったのです。

セーラームーンとエヴァンゲリオンの物語は、冥王星の蠍座時代に始まり、冥王星の山羊座時代に終焉を迎えました。

庵野秀明氏は、1991年からエヴァンゲリオンの原案を作り始められたそうですので、2021年の「シン・エヴァンゲリオン」の公開までに、約30年を費やしています。

そのため、武内直子氏と同様に、約30年という「進行の月(プログレスのサイクル)」や土星の影響に沿って、大衆意識と集合的無意識に影響を与えていると言えるでしょう。

エヴァンゲリオンの物語のセリフには、「円環の物語」という言葉が出てきます。

ホロスコープも「閉じられた円環の世界」ですし、エヴァンゲリオンでは「リリス(黒き月)」や「母性」が強い影響力・テーマ性を持っていますので、エヴァンゲリオンを扱うことで、私たちの無意識に宿っている「触れられない領域」へのアプローチがいくらか可能になるでしょう。

庵野秀明氏の作品制作と時代の変遷

庵野氏は、05月22日生まれですので、双子座の太陽をお持ちです。

今回も前回の記事と同様に、庵野氏の出生ホロスコープを出すことは控えますが、重要な点だけは押さえたいと思います。

出生時間が不明であるため、太陽のハウスは不明ですが、大変興味深いことに、ブラックムーン・リリスは太陽と同じ双子座に位置しています。

セーラームーンの原作者である武内氏は、魚座の太陽をお持ちで、女性の感受性や表現方法などを加味して考えた場合、セーラームーンにおける「白き月」は、「誰に心にも届くメッセージ性」が強く打ち出されているものの、その感覚は非常に曖昧で、だけれど、普遍的である、という特徴を持っていると考えられます。

一方で、庵野氏は漫画家ではなく、アニメーターですので、リアルタイムで制作を進めながら、「餅は餅屋」という言葉の如く、原作・原案・脚本を軸にはするものの、制作はチームで行い、「思考錯誤」と「納得いくまで突き詰める」というスタンスで作品を作られる方と見受けられます。

庵野氏は、大学時代から特撮映画を作り始め、ジブリ作品やガンダム、セーラームーンのアニメシリーズなど、あらゆる作品に携わってきた方です。

庵野氏がアニメシリーズのエヴァンゲリオンを制作し始めたのは31歳(1991年)で、アニメ放映が終わったのは37歳(1997年)です。

1回目のサターン・リターンまでに、数多くの経験を積み、太陽期~火星期にかけて、「代表作」を作り上げた、と解釈することができます。

しかし、火星期の後には、中年の危機が待っています。

今ほどインターネットやSNSが普及していなかった1990年代後半に、庵野氏はいくつもの脅迫を受け、精神がズタズタになってしまった、と仰っています。

テレビシリーズのエヴァンゲリオンが終わった後、冥王星が射手座を運行し、Windowsが普及し始め、2000年代に入ってからは、庵野氏は中年の危機を経験されたと思われます。

中年の危機は、トランスサタニアンによる、「持っている経験値をアップデートする」ために、身ぐるみを剥がされるような体験をもたらします。

そのような経験を経て、ようやく庵野氏は「過去の清算=新しい価値観の創出」の意識とタイミングを掴んだのではないかと思われます。

2006年に新劇場版シリーズの作成に着手したのは、中年の危機が終わった後ですが、当初、8年で完成予定だったこのシリーズは、倍の年月を費やすことになりました。

公開年月日タイトル土星 – サイン冥王星 – サイン
2007年09月01日ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序獅子座射手座
2009年06月27日ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破乙女座山羊座
2012年11月17日ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q蠍 座山羊座
2021年03月08日シン・エヴァンゲリオン劇場版水瓶座山羊座

2012年の三作目の劇場版が公開される前、私たちは、2011年03月11日の東日本大震災を経験しています。

劇場版シリーズは、当初8年で完成させる予定だったようですが、3作目から制作日数が大幅に増えていきました。

2008年から冥王星が山羊座を運行し始め、2024年10月12日まで冥王星による「山羊座の意識の改革」が進む、というのが宇宙のタイムスケジュールです。

この壮大なスケジュールと、庵野氏の人生のタイムラインが同期することで、劇場版の公開が延期されることになった、という解釈ができます。

それもそのはず、二作目の公開の翌年から、庵野氏はカイロン/キロン・リターンを経験することになり、その後、2回目のサターン・リターンの渦中にシン・エヴァンゲリオンを作り上げられたとすれば、有名な作品や影響力のあるクリエイターの生きる姿勢は、大衆意識に強いインパクトを与えることは容易に想像がつきますね。

本記事では、作品の質や監督の力量などといった、個人の主観によって変わる印象や感想には触れません。

クリエイターと作品と符合する天体の運行と、天体の働きに着目するに値する題材に注目するのみです。

庵野氏の双子座の太陽がどのハウスにあるのかは分かりませんが、ブラックムーン・リリスとコンジャンクションしていることで、「大衆が抱く闇に光を照らすこと」や「真に迫る生々しい表現」を取り入れること」を採用することを視野に入れるのではないか、と思われます。

ブラックムーン・リリスを単に「闇」や「凶暴性」と捉えてしまうと、「否定」や「抑圧」の復讐のための意識やエネルギーとなってしまいます。

闇や凶暴性といった、支配に対する反逆といった概念が間違っているのではなく、白き月と黒き月(ブラックムーン・リリス)は裏表・セットとして考えるべきだ、ということです。

そこで、本講座では、ブラックムーン・リリスを、「太陽の獲得・実現・体現」のために必要となる、「月の陰の力を駆動させるための衝動」と表現させていただきます。

なぜなら、私たちの本能が常に「快楽」や「安らぎ」を求めるのは、私たちの行動原理が「恐怖心」だからです。

また、物質世界に二元性の原理が働いているからこそ、私たちは「明暗」や「強弱」を認識・体感することができています。

では、非物質世界や高次元の領域では、そういった「具体性」や「個別性」といったものが無くなってしまう、と解釈せざるを得なくなりますね。

ブラックムーン・リリスに限らず、月は、非物質世界や無意識の世界(領域)に関わる天体です。

月の遠地点である「黒き月」は、特に、地球という物質世界の舞台を中心に、月が地球から最も離れた場所であり、「心の深遠の領域」を表し、「白き月」へと願望や願いといった泡を浮かび上がらせる、と表現したらどうでしょうか?

物質次元の事柄は、私たちが顕在意識で捉えることのできる「結果」であり、「影」です。

その大元は、無意識や非物質次元の領域から降りて来るものです。

では、「掴むことができないモノ」に対して、私たちは何ができるのでしょうか?

黒き月に触れることはできない

本講座の「仮想点ダークムーン・リリス」の記事で、「虚構」を象徴するダークムーン・リリスは、非物質領域にその創造エネルギーを持つ、と表現しています。

「虚構」とは、現実には存在しないものを意味し、該当記事において、ダークムーン・リリスは太極の陰のエネルギーを司ることを示唆しています。

占星術における黒き月とは、白き月が存在すると同時に発生する陰として、地球から最も離れた場所(月の遠地点)を意味します。

ということは、白き月と黒き月はワンセットである、ということです。

白き月が常時感じられる感情の範囲の心であるのに対し、黒き月は、深層心理や無意識といった見えにくい心の部分を司ります。

占星術において、月は外部からのあらゆる刺激や影響を受け取る「受容体」として機能すると考えられています。

この月の受容的な機能には、強制的に外部影響を内側に輸入する機能と捉えざるを得ない側面があり、強制されることによって、「支配」や「被害」さえも受け入れてしまうことになるわけです。

こういった不快や嫌悪は、心の深淵部分(黒き月)へと投入されていきます。

自我意識は、人生において、また、世界に対して、「思い通りにしたい」という欲求を持っています。

ですが、何の努力も工夫もせず、そのような欲求が叶うことはないため、我慢や辛抱、ストレスやプレッシャーが心に募るものです。

日々、私たちは能動的に動いているようで、数多くの「強制」や「要請」に応えながら暮らしています。

そのため、占星術的な観点において、月に関するあらゆる物事は、受容的・消極的・内向的な性質を持つと考えられるため、その機能を積極的・強制的に変えたり、覆すことは健全ではないといえます。

直接的な例えにはなりませんが、「柔らかい感触が好き」と心で思っているのに、機能性や利便性を優先し、「固くて頑丈な物質を扱う」という選択を取ったとしたら、私たちは常に「不快感」や「損得勘定」を抱きながら時間を過ごすことになるでしょう。

こういった「本音と建て前」は、私たちの人生と現実、そして、心を傷つけます。

この傷が深くなり、多くなることで、私たちは心の奥底にある「純粋性(願い)」が分からなくなり、果ては、無意識の領域からの導きや手引きに気づけなくなるのです。

「黒き月=リリス」は、「服従」や「支配」を拒絶し、解放する意識やエネルギーを表します。

だからこそ、世間や常識、状況に対応するために、「自らの闇を否定する」という選択は逆効果です。

私たちが「触れられないモノ」を何とか融通を利かせて手名付けようとする時、私たちの内面に巣食う闇は反旗を翻します。

内面の世界の絶大な力とは、「当事者」に「当事者意識をもたらす」という名目で、「不都合な現実」を体験させることにあります。

つまるところ、「無自覚な欲求」や「無責任な欲望」を、他者を介して実現させ、自分に被害を被らせるのです。

それを世間では「鏡の法則」という表現で語られます。

「他者=別の自分」とした際、他者はあたかも、自分のための演技・役割を果たすかのように動く、と解釈することができますが、他者の一挙手一投足を「自分の無意識」が操っている、と捉えることは不可能ですので、安心してください。

私たちはあくまで、「お互い様の立場」で影響を与え合うだけであって、私たちは誰もが自分だけの世界を生きています。

そのため、私たちが「自分の黒き月」を否定したり、拒絶したりしても、「他者の黒き月」を否定・拒絶することにはなりません。

ただ、他者が私たちの意識・選択・行動に対して、「協力」してくれるだけです。

そして、他者は教えてくれるのです。

「触らぬ神に祟りなし」とは、内在する闇の働きに対して有効であり、他者の世界という別の世界の理には通用しない、ということを。

それでは、エヴァンゲリオンでは、「黒き月」はどのように描かれているのかを考察していきたいと思います。

エヴァンゲリオンの舞台背景

エヴァンゲリオンシリーズでは、ユダヤ教・キリスト教の世界観がふんだんに盛り込まれています。

「神」の存在は明確には示されてはいませんが、エヴァンゲリオンの世界で最も大きな存在感と影響力を持つ存在として、「使徒」という位置づけをされている「アダム」と「リリス」が挙げられます。

アニメシリーズ(原作)の設定

「白き月」に乗ったアダムが地球に降り立ち、その後、「黒き月」に乗ったリリスが地球に衝突し、ファースト・インパクトが起き、アダムとリリスが地球の覇権を争っている、というものは、アニメシリーズ(原作)の設定です。

ややかしいのですが、アニメシリーズ・旧劇場版、漫画版、そして、新劇場版シリーズでは設定が異なる部分があり、すべての物語はパラレル的に繋がっている側面もあります(円環の物語)。

まるで、新たに発見されることで、過去の常識が覆る人間社会のようですね。

今回の記事では、新劇場版シリーズの舞台背景と設定について考察をしたいと思います。

その理由は、新劇場版シリーズにおいて、「黒き月(リリス)」や「神」などの存在と人間の関係性が過去作よりも明確に言及されているとともに、円環の物語に終止符が打たれ、「新たな可能性=呪縛からの解放」が暗示されているからです。

これは見方を変えますと、「二元性の原理を超える」という概念に結び付けることができるのではないかと思います。

これは、アインシュタインの「物事の解決をするためには、新たな視点を採用する必要がある」という意識の座標に通じるものがあります。

その点、新劇場版シリーズのエヴァンゲリオンは、物語というフィクションに感情移入する私たちをそのまま物語に留めておくのではなく、感情移入している自分自身を俯瞰して捉え、再び現実世界を再解釈するように促している側面があります。

物語上では、このような側面を、「人間は虚構と現実を等しく信じられる存在である」という猪狩ゲンドウのセリフで語られています。

月の誕生の謎

以前、本講座の記事で、過去に、地球の衛星としての月は、2つ存在し、これら2つの衛星が衝突することで、現在のような月(白き月)になった、という説をご紹介しました。

実のところ、月がどのように生まれ、現在のように地球の衛星になったのかという経緯は不明です。

現在も月の誕生に関する新しい仮説が生まれている中、アニメシリーズのエヴァンゲリオンの世界観は、ジャイアント・インパクト説を基盤として作られました。

ですが、新劇場版シリーズでは、地球に降り立った(衝突した)のは、「黒き月」のみであるような描写がされていますので、設定が根本的に異なります。

人間とはどのような存在か?

アニメシリーズでは、人間はリリスから生まれた、最後の「使徒」という位置づけがされています。

先ほど、アニメシリーズでは、アダムとリリスが地球の覇権を争っていることが舞台背景である、とご紹介しました。

人間がリリスから生まれたのであれば、人間はアダムとは敵対する存在です。

これは、「生命の実(生命力)」を持つ使徒(敵)が、「知恵の実(知性)」を持つ人間を滅ぼそうとする物語に通じます。

一方で、劇場版シリーズの物語では、そもそも「アダム」が存在せず、代わりに、「アダムス」という存在が登場します。

また、アダムスとリリスは敵対する存在ではなく、「神」の思惑に沿って世界を成り立たせるために動く存在として描かれています。

これは、アダムと、最初の妻であるリリスが「対等の存在」であることが由来になっていると考えられます。

そうしますと、「黒き月(リリス)」には、一般的に普及している「反逆」や「残虐性」などの概念や象徴が宛がわれていることに違和感を感じるようになります。

なぜなら、自分が受けた被害を加害者に償わせることや復讐は、被害を無かったことにはしないからです。

人間の始祖たるリリス:エヴァとリリスの戦いは何を意味する?

エヴァンゲリオンの物語を聖書になぞらえた時、物語の構図は一見、「最初の妻であるリリスと、2人目の妻であるエヴァ(イヴ)による、アダムの取り合い」のように捉えることができます。

アダムは神によって最初に創られた存在であり、神の意図に従う存在ですが、エヴァ(イヴ)が蛇に唆され、アダムとともに知恵のみを食べたことで、楽園を追い出されることになりました。

アダムとリリスが対等である理由は、エヴァ(イヴ)がアダムの肋骨から創られ、男性原理を裏付ける根拠になり得るからです。

ですが、対等なリリスであっても、自分の身体の一部から作られたエヴァ(イヴ)であっても、アダムはパートナーシップにおいて失敗しているわけですが、このことから何を見出すことができるでしょうか?

リリスを「本音」、エヴァ(イヴ)を「建前」とした時、アダムは「主体性」や「能動性」といった意識に例えることができます。

それは、白き月(エヴァ/イヴ)が表舞台に立ち、黒き月(リリス)が舞台から最も離れた場所から地球を眺めている構図を占星術に当てはめますと、「太陽の獲得・実現・体現」に行き着きます。

「黒き月(リリス)」は、「本来体験しようとすべき事柄」を象徴するにも関わらず、「白き月(エヴァ/イヴ)」の「時間が止まった内的世界=幼児性」によって、外部からの支配や刺激に翻弄されてしまい、本質である太陽の力が発揮されにくく、リリスは心の奥底に封じ込められてしまいます。

これを、聖書ではリリスとエヴァ(イヴ)が堕落し、悪魔の道に堕ちた、という風に表現していると思われます。

また、エヴァンゲリオンの物語では、「知恵を失うことと引き換えに、永遠の命を得て、全体と交わる契約」という「人類補完計画」が物語の根底にあります。

これは言うなれば、人類全体に強制され、押し付けられた「原罪意識」と「救済と引き換えに個の存在の喪失」という理不尽な強制力です。

リリスは悪魔・ルシファーサイドにつき、神と敵対する存在として描かれていることの理由は、「神に抗ったこと」に起因します。

古事記のイザナギ・イザナミの物語でも、「女性から男性を誘ったからヒルコが生まれてしまった」という男性優位・男性原理の肯定とも取れる描写があります。

これは、男性優位と女性優位、男性原理と女性原理のどちらかが正しくあるべきだ、という概念・発想をした時点で、二元性の原理の対立構造に巻き込まれてしまう、ということに気づかせるポイントではないでしょうか?

新劇場版シリーズでは、

「滅ぼされる運命をただ受け入れるだけの存在」としての人間ではなく、

「当たり前に幸せに生きていこうとする姿」としての人間が描かれます。

この「人間としての尊厳」が感じられるセリフが2つ劇中で見つけることができます。

  • 「私達は、神に屈した補完計画による絶望のリセットではなく、
     希望のコンティニューを選びます」:赤木リツコ
  • 「私は、神の力をも克服する人の知恵と意志を信じます」:葛城 ミサト

それが、「神に対する反逆」として、リリスから生まれた存在である人間(リリン)の存在証明と生きるために必要な通過儀礼です。

そして、シン・エヴァンゲリオンでは、従来の人間の発想・願望である、「神殺し」や「人間補完計画」といった計画を超えた、「世界の書き換え」が行われて物語は幕を下ろしました。

アニメシリーズのエヴァンゲリオンは、どちらかというと、「原罪意識」という押し付けられた理不尽な足かせを運命として受け入れる世界が描かれていたのではないかと思います。

それは、「神の子」としての務めであり、運命であると。

一方で、新劇場版シリーズでは、「神」として世界(現実)を創造するために、最も大切な存在と引き換えに、これまでの呪縛の一切を取り払う新たな可能性(展開)が描かれているのではないかと思います。

それが、主人公・碇シンジが、母親である碇ユイを失うことで達成される「神殺し」を遂行するとともに、父親である碇ゲンドウの心の奥底に眠っていた「悪感情」や「トラウマ」の解放し、そして、世界からエヴァンゲリオンを消失させる、という解釈に結実します。

「押し付けられた福音=エヴァンゲリオン」そのものを解消することで、「原罪」が解消されるのか、ということは受け手の意識に依ります。

なぜなら、先ほどアインシュタインの言葉を引用したように、同じ視点で世界を見ている限り、違う景色が見えないように、信仰と信念は、「これ以外の選択肢は排除する」という意識だからです。

庵野監督は、太陽とブラックムーン・リリスが双子座でコンジャンクションしているからか、「人類が持つ原型(アーキタイプ)の闇」を心の底から引きずり出し、顕在的な働きよりも潜在的な働きの方が絶大な力を持つことを表現されたのでしょう。

シン・エヴァンゲリオンでは、「黒き月と白き月の相殺によって、虚構の月を物質次元に引きずり出す」ようなイメージを連想させるセリフがあります。

「人類のフィジカルとメンタルの補完を同時に発動させるとは -」:真希波・マリ・イラストリアス

「”エヴァンゲリオン・イマジナリー。”
葛城博士が予測した現世には存在しない想像上の架空のエヴァだ。
虚構と現実を等しく信じる生き物。人類だけが認知できる」:碇ゲンドウ

前者は、「人類補完計画」によって、生物が肉体という「個の器」と、心という「個の器」を捨て、全体と融合する儀式を表現しています。

後者は、「物質次元には存在していない、自覚することさえできない、人類の集合的無意識や共通概念」を表現しているのではないかと思われます。

この「エヴァンゲリオン・イマジナリー」が、ブラックムーン・リリスに対応しているのか、それとも、ダークムーン・リリスに対応しているのかは定かではありません。

ですが、本講座、ないし、本記事では、ダークムーン・リリスを採用したいと思います。

ダークムーン・リリスは、地球の第2の月とされるものの、一切の物質性を供わない感受点です。

「幽霊の月」とも表現されるダークムーン・リリスは、視覚化されることがなく、私たちが認知することができません。

ダークムーン・リリスほど、「隠された霊的な要素」を持つ感受点はないかもしれません。

永遠に続く闇の世界にいくら松明で照らそうとも、照らす対象すら見つからないのですから。

白き月と黒き月は役割の違いであって対立しない

私たちの心は、リスクや平穏を脅かされる状態を嫌がるようにプログラムされているのか、私たちは常に想定内の期待と想定外の可能性の間を行ったり来たりしているようで、実は、想定内の期待という「再現」が叶うことを望んでいたりします。

そのため、評価された作品の続編は、常に前作と対象にされ、「想定外の展開」や「飛躍した発想」を嫌悪感を抱かれやすくなるのでしょう。

これは、「普遍的な心」としての「大衆心理」にどこまで応えるのか、という制作サイドの苦悩と言えます。

タイトルの「エヴァンゲリオン」は、「福音」を意味する言葉ですが、何を成すことが福音であるか、そもそも、その福音は人間にとって、真の幸福であるのかは分かりません。

人生や現実に起こる「理不尽な事象」は、短期的に見れば不幸や不運にしか見えませんし、「押し付けられる現実」は強制力としてしか働いていないように思えてしまいます。

劇場版の完結作であるシン・エヴァンゲリオンは、「エヴァを必要としない世界」を作ることで、物語の中枢にあった「神への抗いの元凶」を取り去りました。

そのため、新劇場版シリーズの物語のおける「エヴァ」と「リリス」の存在は、アダム(男性原理)を巡った敵対・対立関係では描かれてはいないのです。

また、「押し付けられた運命(概念)」をただ受け入れるような、思考停止の状態(知恵の実の喪失)を拒絶する意志の強さをも描いているように思います。

それは、「黒き月(リリス)」がアダムと対等であることを当然だと考えていたように、自らの意志によって自らの選択・行動を決める、真っ当な在り方・生き方です。

そして、エヴァンゲリオンの物語は、終始、「内面世界」の奥深さを描いています。

「黒き月=ブラックムーン・リリス」は、「本来、人に見せるべきではない闇の部分」と捉えられています。

エヴァンゲリオンの物語では、白き月ではなく、黒き月(リリス)によって世界を統合しようとする大きな力が描写されています。

日本には、「本音と建て前」という言葉がありますが、本音は黒き月とし、建前は白き月とすれば、本音は、個人の力だけでは叶えられない、もしくは、救われない、と解釈することができます。

前回の記事で、「月の欠損」の理論で、マドモアゼル愛氏の「月は個人のために使う星ではない」という言葉をご紹介しましたが、エヴァンゲリオンの物語では、逆に、「世界を左右する重大な決断を個人が行う」という決断の重要性を強調しています。

新劇場版シリーズの物語の結末では、「個人の願い」が「全体のための願い」となった時に叶う描写がされていますので、「本音と建前」、「白き月と黒き月」が対立しない、ということを表していると言えるでしょう。

黒き月(リリス)=闇を受け入れ、愛することができてこそ、世界に祝福される

ロボットアニメでは、戦闘シーンが強く求められる傾向がありますが、エヴァンゲリオンの物語では、心理描写も多く描かれます。

アニメシリーズでは、第8話まで軽快なテンポと斬新なアニメーションと物語で視聴者の関心を引きましたが、その後、徐々に心の闇や人間の厭らしさ、トラウマなどが事細かく描写されていきます。

私たちは誰しも、それぞれの「闇」を抱えながら生きています。

それは、「プラグラム」や「設定」、「後天的に開花される能力・才能のための種子」と表現すると滑稽かもしれません。

ですが、「闇」は私たちに恐怖や不安を与えますが、命を奪うのではなく、私たちが周囲からの支配や洗脳を受け続けていることの証明でもあります。

ホロスコープ上の月のハウスとサインは、人生を通して、「安らぎ」と「リスク回避」の条件や環境を表します。

それと同時に、月が持つ「全体の幸福を願う純粋性」によって、私たちは他者に安らぎを与えることによって、自らに幸福を体験させることができます。

では、黒き月(リリス)はどうかといいますと、「支配」や「服従」を強いられることによって、私たちが抱えることになった「心の傷」という存在証明と表現できるのではないかと思われます。

ただ、「起こった事実」そのものによって、私たちの過去は肯定される。

それは、決して難しいことではありません。

私たちは常に過去に「強い引力」を感じながら、「後悔」や「懺悔」の念を抱きながら生きています。

それを、「原罪意識」という風に表現すると、宗教的な思想でなくたとしても、私たちは「闇を恐れる」という本能がプログラムされていることから、私たちが無意識の領域では繋がっていることを否定することはでいません。

また、集合的無意識を介して、私たちの表層的な心の領域に、「原型(アーキタイプ)の恐怖と不安の反射神経」が宿っていて、その反射神経が「心の傷」として私たちに苦悩や受難を与えるのであれば、余計に「心の闇」を見ることは困難になります。

だからこそ、「心の闇」という存在を認めるという、「肯定」と「受容」によって達成される「自己救済」は、他者に自己救済を促す「希望」という安らぎになり得るのです。

リリスはカイロン/キロンによって開かれる?!

これまで、エヴァンゲリオンを題材に、「黒き月(ブラックムーン・リリス)」についての考察を進めるとともに、「幽霊の月(ダークムーン・リリス)」についても触れ、白き月は闇の領域があるからこそ成り立つ、ということをお伝えしてきました。

最後になりますが、現代占星術で注目される小惑星カイロン/キロンと黒き月(リリス)との関連性について触れたいと思います。

単に、「心の闇」に意識を向け、心を抉り出したとしても、行き着く先は尚早の荒療治によって引き起こされる「自滅」です。

そのため、私たちが自分自身を肯定・受容し、活かすためには、息の長い、持久走としての自己認識と自己改革が必要になります。

そこで、占星術の年齢領域や天体のサイクルを活用し、魔法ややっつけ仕事ではなく、「積み上げる=体験する」段階的な現実の捉え方が、私たちを自滅の道を自ら進むことを引き留めてくれるはずですので、「自分を体験する人生」の全体像を把握し、客観的に現状を把握することが重要です。

「中年の危機」の記事で、人生のライフステージや天体のサイクル(木星と土星、トランスサタニアン)をご紹介しました。

あなたの現状が、中年の危機やサターン・リターンの時期に当てはまらなくても、人生の全体像を把握することで、安心感と希望が生まれます。

その安心感と希望が私たちに教えてくれるものとは、「今、この瞬間」という座標以外に、私たちが主体性を発揮できる場所(時空)は存在しない、ということです。

事実としての過去と、予測としての未来は、現在のあなたにネガティヴな記憶と感情を抱かせますが、実際にあなたの身に危険をもたらすほどの影響力はありません。

なぜなら、過去も未来も、私たちの脳内にしか存在せず、体験することができないからです。

それは「妄想」や「幻想」と言ってしまっても問題ないくらいに、私たちは「既に過ぎ去ったもの(過去)」と「実現することのないもの(未来)」に強い執着を持っていることの証拠ではないでしょうか?

話をカイロン/キロンと黒き月(リリス)に戻しますと、私たちが先天的に与えられた「闇」という種子は、次のように捉えると、自己認識と今後の展望の捉え方が変わります。

  1. 与えられたもの、備わっているもの、授かったものは、
    必然のタイミングで開花し、活用することができる
  2. 心は光ではなく、闇を宿すための器であり、
    太陽を育てるための媒体・手段・役割である月を象徴する
  3. 物質次元に生きることは、
    時間と空間、変化と移動、有限性と循環のプロセスを体験することである
  4. 心(月)は、自身の闇を媒介として、
    外面の世界に光を反射させるための役割を担う
  5. 心の傷は、自分を傷つけるためではなく、
    他者を癒すことで、自分自身を救済するために与えられた「ギフト」や「祝福」である
  6. 心の傷は、一定期間の間熟成させ、内省と内観を経て、
    新たな選択と行動、そして、結果を得ることで、
    新しい解釈を得ることによって、心の傷の癒しが進む
  7. 黒き月は、白き月の役割を機能させるために、内在する闇にエネルギーを蓄積し、
    自らの闇を受け入れることによって、
    徐々に、白き月と黒き月の統合が進み、
    太陽の獲得・実現・体現が成就する道が拓かれていく

カイロン/キロンは、土星とトランスサタニアンを結ぶ「架け橋」であると表現される天体(小惑星)です。

面白いことに、カイロン/キロンの記号は「鍵」型をしています。

黒き月(ブラックムーン・リリス)は、十字の上に三日月が乗っている黒い「鍵穴」のようなシンボルで表されますので、私たちが人生を懸けて、「与えられた闇」という「謎」を解く物語を生きていると言えます。

ですから、光と闇、男と女、表と裏、強さと弱さ、高さと低さのような、二項対立の価値基準という競争原理・支配原理で自分自身を定義し、評価することは推奨されません。

むしろ、白き月を成り立たせる黒き月の凶暴性や反逆性を強化するだけです。

人は、何歳になっても学びが続くと言います。

「今」がすべてであると同時に、「今」はすべてではありません。

前者が「永遠の今」であるならば、後者は「全体性の今」です。

私たちは物質次元に生き、肉体と心を器として、意識(魂)が望む体験を積み重ねています。

ですから、どうか、「今のあなた」を受け入れ、愛し、大切にすること(自愛)を諦めないでください。

それは必ず、「慈愛」という大きなエネルギーへの貢献となり、大宇宙の創造活動の発展に還元されるのですから。

黒き月は「望まない現実」ではなく、「望む現実」のために闇を見せる!

今回の記事は、番外編その2としまして、エヴァンゲリオンを題材として、黒き月(ブラックムーン・リリス)の解釈と、月(白き月)の理解を深める内容をお伝えしました。

前回と今回の記事は、冥王星の蠍座時代に生まれた、大衆心理や集団心理と、集団的無意識に刻まれた原型(アーキタイプ)の共通概念・観念の創作物ともいえる、セーラームーンとエヴァンゲリオンを題材とした、「考察」をテーマとして執筆を進めました。

古典占星術では、黒き月やカイロン/キロン、その他の小惑星は扱いませんので、現代占星術に馴染んでいる方の方が、多くの知識を持っていらっしゃると思います。

ですが、私たちは「絶対的な答え」というものを獲得できることはなく、常に、「予測」や「想定」といった曖昧な基準で人生を生きていますので、誰かの経験則や人生経験、価値観や表現、見解は、「判断基準」や「共通認識のための材料」でしかありません。

今回は、「心の闇」や「心の傷」といったキーワードを出すことによって、いかに、私たちが「光」に意識を向けたがっているか、という私たちの心理を暗にお伝えしました。

ですが、時に、私たちは「自分を生きるのは自分しかいない」という気づきを得て、自分と対峙する覚悟が必要となり、「避けてきた闇」を味わわざるを得ない状況に遭遇します。

冒頭で、「黒き月に触れることで支障をきたす」というような内容を書きましたが、それは、「現状維持」のための変化が崩れる前兆として現れる影響を指しています。

つまり、「闇を受け入れること」を真に実行できる時と、そうでない時が確実にある、ということです。

とはいえ、ホロスコープ・リーディングを深める上で、全体像を掴み、抽象度の高い本質的な感覚を体得するためには、「普段なら意識を向けない領域」にも勇気を出して踏み込む必要があります。

本記事でお伝えしたように、恐怖や不安は私たちの命まで奪ったりはしません。

むしろ、「危機管理」や「思考実験」という理性と道徳の実践は、心の成熟を促進させるだけでなく、他者貢献のための経験値となります。

今回はエヴァンゲリオンを題材にしましたけれど、あなたの心を掴んで離さない作品は沢山この世の中にあると思います。

是非、世界に溢れる作品と占星術を紐づけて、あなただけの世界観と感性、他者を活かし、あなた自身を活かす道を見つけ、その道を深めていってください。

今回の記事でご紹介したエヴァンゲリオンの世界観や難解な物語、解釈などはさておき、占星術的な解釈や天体の捉え方が、あなたのホロスコープ・リーディングの上達に少しでもお役に立てたなら幸いです。

次回は、本講座「深楽しい西洋占星術講座」の総まとめとしまして、「ホロスコープ・リーディングを深めるための指南」の記事を執筆・公開予定ですので、楽しみにしていてくださいね!

今回も最後まで読んでいただきまして、誠にありがとうございました!

一ノ瀬ユイ
執筆者

WEBライター。西洋占星術の講座を継続的に執筆中。占いの他、神道の学びやレイキヒーリング、言霊学などを通して、精神探究を続けています。只今、オリジナルの占星術鑑定を計画中です。

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