YOKU STUDIO による連載企画、SPIRITUAL REBIRTH PROJECT。
今回は、「輪廻転⽣ 再⽣」シリーズの第 3 弾です!
前回は、古代インドの聖典・哲学書である「ウパニシャッド」に⽰された「輪廻」の考え⽅についてお話ししました。
素朴な魂の循環を説いた「五⽕」説に加え、注⽬すべきは「⼆道」説。
特別な修⾏を積めば、⾃然のサイクルとして魂が何度も地上に舞い戻ることなく、宇宙原理と⼀体化する理想的なルートをたどることができるのだという考え⽅が、ここで⽰されたのです。
ある種の「教義」として「輪廻」を明確に定義した「ウパニシャッド」は、今⽇にいたるまで世界中の⼈々のなかに受け継がれている「輪廻転⽣」の想像⼒に、⼤きな影響を及ぼしたことはたしかです。
「ウパニシャッド」において、「輪廻」から逃れる上で成し遂げられるべき「梵我⼀如(ぼんがいちにょ)」の状態というのは、現代スピリチュアルで⾔われる、「ワンネスとの統合」や「アセンション」にも通底するものでもあります。
しかし、「ウパニシャッド」的な「輪廻」の考え⽅は、「俗世から離れて修⾏をする⼈こそが⼈として正しく、尊い」というように、「修⾏者」「宗教者」の特権性の主張につながるものでもあったのです…
今回はまず、「ウパニシャッド」における「輪廻」の定義を、その問題点も含めて深掘りし、そこに独⾃の解釈を加えて成⽴した、ブッダによる「輪廻」の定義に迫る⾜がかりにしていきます!
「梵我⼀如」を⽬指して
そもそも、「ウパニシャッド」の「⼆道」説において、⽣まれ変わりの循環から逃れるため
には、俗世を離れて修⾏する必要がある、とされたのは、⼀体なぜなのでしょうか?
そこには、修⾏によって本来的な⾃⼰としての「アートマン」(「真我」)を⾒出し、宇宙原理としての「ブラフマン」と⼀体化することこそが、⼈間の⽬指すべき境地だ、という考え⽅がベースにありました。
『ブリハッド・アラーニヤカ・ウパニシャッド』第4篇第 4 章には、欲望を離れて「アートマン」を追求することで「ブラフマン」にいたり、「輪廻」から逃れられると、明確に記さ
れています。
六 これに関して次の頌あり。
(「ブリハッド・アラーニヤカ・ウパニシャッド 第 4 篇」(辻直四郎『ウパニシャッド』所収、1990 年、講談社学術⽂庫、143-180 ⾴)、166-167 ⾴。)
執着ある⼈は業に伴われてかしこに赴く、
その性向と意との固着するところに。
この世において彼がいかなることを作すとも、
その業の終極に達したる時、
かの世界より彼は再びこの世界へ帰り来る。
〔更に新しき〕業を積まんがために。
以上は欲望ある者に関す。
次に欲望なき者に関して。
欲望なく、欲望を離れ、欲望を成満し、我のみを希求する者には、その諸機能は出離せず。
(中略)彼は梵となり、梵に帰⼊す。
そもそも、個としての私たちがそれぞれ持つ「アートマン」(=我)は、宇宙原理としての「ブラフマン」(=梵)と同⼀のものだと考えられていました。
しかし私たちは、⽇常⽣活を送る上で、様々な欲望にまみれ、「アートマン」を⾒失ってしまっている。
だから、そのような欲望を断ち切り、⾃らの内⾯を深く⾒つめると、そこに「アートマン」があることに気づき、宇宙と⾃⼰が⼀体化した境地、すなわち「梵我⼀如」の境地にいたることが重要なのだと説かれたのです。
宇宙原理としての「ブラフマン」と、私たち⼀⼈⼀⼈が持つ「我」としての「アートマン」の呼応関係は、⻄洋思想における「マクロコスモス」(=⼤宇宙)と「ミクロコスモス」(=「⼩宇宙」)との呼応関係によく似ています。
(この連載でも触れる予定の、古代ギリシアの哲学者・プラトンや、その思想に深い影響を受けて誕⽣した「新プラトン主義」という潮流において説かれたものが有名です。)
「悟り」のためには修⾏が必要
服部正明⽒は、「アートマン」への気づきと、「輪廻」からの解放の関係について、このように解説しています。
輪廻の鎖は、⼈が⾃らの内⾯にアートマンを⾒出したときに断たれる。アートマンの認識をさまたげているのは、⼦孫や財産などを得たいという願望、さまざまな現世的なものに対する欲望にほかならない。⼈は欲望にしたがって物事を意図し、意図のままにそれを⾏い、そして⾏いに応じた果報をうけつつ、⼀つの⽣から次の⽣へと輪廻を続けているのである。…
(服部正明『古代インドの神秘思想 初期ウパニシャッドの世界』、2005 年、講談社学術⽂庫、220-221⾴)
(中略)
欲望を余すところなく捨て去り、アートマンに専念する者は、⾃と他との⼆元性を離れ、ブラフマンと⼀体のものとしてのアートマンを⾃らの内⾯に直観する。そのとき彼は⾝体を蝉脱せんだつしてブラフマンそのものとなるのである。
「輪廻」というのは、本来的な⾃⼰としての「アートマン」を⾒失っているからこそ起こるもの。
だから、現世の様々な欲望を断ち、修⾏に励み、⾃らの内⾯に「アートマン」を発⾒できれば、その⼈はもう「輪廻」する必要はなく、有限の⾁体に宿ることなく宇宙原理と⼀体化する「神道」を歩むことができる、というわけです。
世俗的な欲望を断ち切ることで、個と全体が⼀体化した境地にいたれば、この世の苦しみから逃れられるのだという考え⽅⾃体は、近代・現代スピリチュアリズムにも受け継がれているものです。
スピリチュアルにおける魂の成⻑、「悟り」、「アセンション」に向かうためには、孤独な修⾏が必要というイメージのルーツは、「ウパニシャッド」にすでに⽰されていたんですね。
けれども、「ウパニシャッド」に⽰されたこのような「輪廻」観には、⼤きな問題点がありました…
「ウパニシャッド」が編纂された古代インドの社会的背景として、「輪廻」から逃れるために俗世を離れて「修⾏」を積むことができる⼈々というのは、かなり限られていたはずなんです。
「輪廻」と差別意識
インドには古くから、「ヴァルナ」と呼ばれるカースト制があり、現在にもその残滓が⾒られます。
その最上位に位置するのは「バラモン」という聖職であり、その下に、「クシャトリヤ」(王族・戦⼠)、「ヴァイシャ」(平⺠)、「シュードラ」(隷属⺠)が存在し、「ヴァルナ」を持たない「アチュート」と呼ばれる最下層⺠もいました。
このことを踏まえれば、俗世を離れて「修⾏」できる⼈、すなわち「輪廻」から逃れられる⼈、というのは、そもそも「バラモン」、すなわち⾝分の⾼い層に限定されていたのではないかと考えられるわけです。
だから、「ウパニシャッド」の「輪廻」の定義というのは、そのようなごく少数の、⾼い⾝分の⼈々を、特権化するロジックでもあったんですね。
⽇々の⽣活に追われる⼈、裕福でない⼈は、そもそも「修⾏」に取り組むことが難しいのだから、「輪廻」し続けるほかない、ということになる。
このような考え⽅は、この世界において低い⾝分で⽣まれた⼈を、「前世において功徳を積まなかった⼈」と結論づけて蔑視することにも、容易につながってしまいます。
実際、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』第 5 篇第 10 章には、このような記述があります。
七 しかしてこの世において好ましき⾏作をなす者には、彼らが好ましき胎に宿るの予感あり。すなわちあるいは婆羅⾨の胎に、あるいは王族の胎に、あるいは庶⺠の胎に。されどこの世において悪臭ある⾏作をなす者には、彼らが悪臭ある胎に宿るの予感あり。すなわちあるいは、⽝の胎に、あるいは豚の胎に、あるいはチャンダーラ(=最劣等の階級)の胎に。
(「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド 第 5 篇」(辻直四郎『ウパニシャッド』所収、1990 年、講談社学術⽂庫、201-209 ⾴)、208 ⾴。)
前世で良い⾏いをすれば、「バラモン」(=「婆羅⾨」)、あるいはそれより少し下がって「王族」や「庶⺠」に⽣まれ、「輪廻」からの解脱へ近づいていくことができる。
けれども前世で悪い⾏いをすれば、⽝や豚、あるいは「チャンダーラ」(ヴァルナを持たない最下層⺠)に⽣まれ、ずっと「輪廻」から解脱できない。
「ウパニシャッド」の「輪廻」の定義は、「カルマ」思想とも結びついて、⾝分制を強化し、差別意識を増⻑させるものでもあったんです。
このような「輪廻」観の問題点に挑んだのがブッダでした。
彼は、「輪廻」の概念⾃体は引き継ぎつつ、⾝分制を否定した形でそれを再定義しようと試みたのです。
ブッダの「輪廻」の捉え⽅の独特なところは、「輪廻」を繰り返す主体としての不変の「私」、つまり「我」という概念を、そもそも想定していないところ。
(仏教は「無我」の思想であることは、よく知られていますよね。)
では、ブッダが説いた「輪廻」とは、⼀体どのようなものだったのか?
「輪廻転⽣」を再定義する上での重要な参照項としての仏教的「輪廻」を、次回詳しく解説します!
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